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リピート

彼女の瞳に涙が浮かんでいた。
彼女はきつく歯を食いしばり、浮かべた涙をこぼさないようにと眉間に皺を寄せている。


「うん…大丈夫、大丈夫だから。本当に…」


気丈に振る舞っていても声は微かに震えていた。
長らく一緒にいたが、彼女の涙を見たのは初めてだった。


「本当にごめん」


謝っても何も変わらない。そして、許しを請うている訳でもない。ただ、謝る以外に紡げる言葉がなかった。


「いいから…本当に、もういいから」


彼女は語気を強めた。それでもどこか消え入りそうな声だった。
彼女が零した涙が地面を濡らした。

サークルの同期として一年生の頃から一緒にいることが多く、二人で出掛けるくらいには仲が良かった。
それでも、あまりに近しい距離感のせいか互いを性的に意識したことはなく、仲の良い異性としか捉えていなかった。


変わりだしたのは一年前の六月。一足先に就活を終えた彼女がつきっきりで手伝ってくれたあの頃だ。


僕も彼女も勉学に対しては真面目で、お互いのそういった面を認めていたし尊敬すらしていた。

しかし、僕の能力は学業にしか適応していなかった。
軽んじていたわけではない。自分なりに企業研究や面接の練習などしていた。しかし、結果は実らなかった。


集団面接では僕という個性は埋没し、個人面接では頭ごなしに否定された。時には履歴書一枚で僕という個人やそれまでの人生で培ってきた全てを蔑ろにされた。


自分が社会から必要とされていないと明確につきつけられているようだった。


「君はきちんと頭良いんだから。大丈夫だよ。ただ、自分のことがわかっていないだけだから」


彼女は僕をそう励ました。


自分では自分のことを誰よりもわかっていると思っていたし、誰かや何かを観察する能力は人よりも高いと自負していた。


「確かに君は頭が良いし、要領も良い。人にアドバイスするときも的確だし、やることもやってる。でも、自分がない。自分と向き合ったことある?」


彼女の言葉の意味が理解できなかった。


自分は自分であって自分でしかないなどと屁理屈をこねる気などなかったが、それでも彼女の言葉の真意は掴めなかった。


「わかんないみたいだね。しょうがないな。私に任せなさい」


彼女は僕の頭をくしゃくしゃと撫でると得意げに言った。


自分一人ではどうしようもなかったし、彼女のことは信頼していた。その頃はもう精根尽き果て、半ば諦観していたし自棄にもなっていた。だから、彼女の言葉に絆されて全てを委ねることにした。

お盆の時期には多少ずれていたが駅のホームは人でごった返していた。
紫色の空は悠然と流れており、どこかで蝉の鳴き声が聞こえる。


「今日は楽しかったね」


繋がれた彼女の手は懐かしくも、どこか違和感を覚えた。


「ねえ、次はこっちに来なよ。来たことないでしょ」


彼女は優しく笑いかけ、もう来ない未来の話をしている。
胸が堪らなく痛い。


「ごめん、それは無理なんだ」


繋がれた手がそっと離れた。
彼女は僕の言葉よりも声色から真意を察した。


見慣れているはずの彼女の表情がどこか遠くに見えた。


「ねえ、あそこ座ろうか」


ホームのベンチに腰をかけ、彼女が僕の言葉を待った。
どれほど時が流れただろうか。一分にも感じられたし五分にも感じられた。


「…好きな人ができたんだ」


それ以上何を言えば良いかわからなかった。
彼女はしばらく黙って「そっか」と一言呟いた。


友人として三年。恋人として一年。あまりに長く一緒に居た。半身と言っても過言ではない。大学生活のほとんどを一緒に過ごした。
互いのことは手に取るようにわかったし、互いが互いを作り上げているという自覚もあった。


行き交う人々の中には僕たちを怪訝な目で見る者もいた。だが、大半は僕らのことなんて見向きもしなかった。

撫でるような風が僕らをそっと包んだ。


「ねえ、最後に良い?」


反射的に彼女に顔を向ける。綺麗で真っ直ぐな瞳が僕を射貫いた。


「どうしようもないんだよね」


その眩さに堪えきれず思わず目を伏せた。


「…ごめん」


絞り出すようにして声にした。


「そっか…」


彼女は徐に立ち上がり僕を見下ろした。


「ありがとう…ばいばい」


彼女の瞳に涙が浮かんだ。


「おめでとう」
「本当にありがとう」

彼女の喜びようは受かった僕よりもすごかった。


「本当に良かったね。おめでとう」


柔らかい眼差しで嫋やかに笑った。
自分でも驚くほど上手くいった。自分と向き合えたかどうかはわからない。それでも結果は得られた。


「良かったよ。本当に良かった」


彼女はしつこいくらい祝福してくれた。
それがくすぐったくもどこか温かかった。


「でも、結構離れるね」
「そうだね。でも、東京と京都なんて近いよ。新幹線だと二時間もかからないし。」
「そうだよね。うん、そうだよね」


彼女は確かめるように呟いた。


「ねえ、これ覚えてる?」


彼女が手にしているのはノートの切れ端だった。


「何それ」


彼女がそれをひっくり返すと「なんでも券」と僕の字で書かれていた。


「二十歳の誕生日に君がくれたもの。覚えてない?」


うっすらと記憶にある。彼女からはプレゼントを貰ったのに彼女の誕生日に何も用意していなかった僕が冗談半分で渡したものだ。


「懐かしいな。まだ持ってるなんて」
「でしょ。いつか使ってやろうと思って財布にずっと入れてたの」


彼女は意地の悪い笑みを浮かべた。


「怖いなー。バイトもしてないから高いものとかは買えないからね」
「そんなんじゃないよー」
「でも就活でだいぶお世話になったからそんなの使わなくても大抵のことならしてあげますよ」
「本当に?」
「本当に」


僕らの視線が交差する。なんとなく可笑しくて二人して声を出して笑った。


「じゃあさ…」


彼女は一瞬間を置くと、破顔して言った。


「好きだよ」


彼女を乗せた新幹線は数分前に行ってしまった。
それからしばらく行き交う人々を呆然と眺めた。
本当に終わったのだとじんわりと理解する。手足に力が入らず視界もぼやける。


溢れる想い出は何でもない日常で、二人とも笑っている。
別れ際、彼女から渡された小さな紙を見つめる。
「なんでも券」と書かれたその後ろに「一生一緒にいたい」と彼女の字で書かれている。


彼女の文字を見るのは久しぶりだった。綺麗で科のある字だった。


彼女が濡らした地面はもう乾いていた。


ポケットの携帯が震えた。


「もしもし、着いたよー」


彼女の快活な声に安堵を覚える。


「ごめん、まだ東京駅なんだ」
「えー遅いよ」
「ごめんごめん。もう少しで行くから待ってて」
「うん。せっかくの一ヶ月記念なんだから遅刻しちゃダメだよ」
「わかったって。じゃあまた後で」
「うん、待ってるね」


彼女の声は落ち着かず興奮しているのがわかった。
きっと目一杯お洒落をしてくるのだろう。
それを想像するだけで愛しく思える。
遅刻しないようにと釘をさされたので急いで立ち上がる。
どこかで風鈴の音が聞こえる。
ノートの切れ端はいつの間にか手のひらから零れていた。

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