ほかの誰かの中心と、ちょっとだけ重なる|みえるとかみえないとか
ヤーコプ・フォン・ユクスキュルが提唱した「環世界」のことをわたしに教えてくれたのは、東畑開人氏の『居るのはつらいよ』だったかな。いや、伊藤亜紗氏の『どもる体』だったかな。
どちらもわたしの大好きな本だ。
……でもすぐに該当箇所を引っ張ってこられなかったので、ネットを参照。
それは、その人が知覚している世界、その人だけの景色。
産休に入る前のわたしの環世界にも、最寄り駅の駅ビルはあった。スーパーも薬局も雑貨屋も服屋も花屋もあって、あらゆる用事をササッと済ませられる便利な空間だった。
でも産後、ベビーカーを押してみてこれまで見ていた世界が崩れ去るのを感じた。ちょうど舞台装置がぐるんと回転して姿を変えるのと同じように。
何百回と利用してきたはずの駅ビルの、エレベーターの位置をはじめて正確に認識した。いたるところに行く手を阻む障害物が「見えるように」なった。
わたしはわたしのままなのに、世界も世界のままなのに、わたしの環世界は前と違う。
*
ベビーが生まれてきてから、絵本を3冊買った。
たぶんこれからもっと買うのだろうけれど、その最初の3冊を選んだ経緯は下の記事で書いた。
そのうちの1冊が、ヨシタケシンスケ氏の『みえるとかみえないとか』。ヨシタケワールドは日本中の子どもと大人たちをも魅了してやまない。だからいまさらわたしが語ることはないのだけど、やはり今回も面白かった。
主人公の地球人は、宇宙のたくさんの星々に行く。
出会うのは、わたしたちとはどこか「違う」宇宙人たち。出会い頭に「わ!」と驚き合って、宇宙人はこう言うのだ。
目が2つしかないなんて不便そう。自分の背中が見えないなんてかわいそう!
読者は思わずクスッと笑ってしまう。
そうだよね、そう見えるよね。たしかにね。って。
そのクスッは、「ま、これがわたしたちのフツウなんですけどね」という余裕がなせる業だ。目が3つあるのがジョーシキな星にたったひとり2つ目で生まれ落ちたとしたら、たぶんクスッなんて言っていられない。自分以外のみんなに「かわいそうね」って言われ続けたら、うっかりみじめな気持ちになりそうだ。
『みえるとかみえないとか』には、たくさんの宇宙人が出てくる。
目が3つあるけどうしろの1つは見えない宇宙人も出てくるし、白杖をもつ地球人も出てくる。
背の高い人も低い人も、ともだちがたくさんいる人もおとなしい人も。大人も子どもも。
この世界に中心はない。
人数が多くて声の大きい人たちは確かにいるけれど、その人たちだってそうでない人たちの中心にはなれない。ひとりひとりがそれぞれの環世界の中心を作っていて、中心は少しずつ重なったり重ならなかったりして存在している。
「同じ」を共有するとき、中心は重なる。ベビーが生まれて、わたしは子育ての当事者に仲間入りした。
だけどほら、環世界は「知覚」の空間なのだ。他者になれなくても、わたしたちは想像ができる。もしもわたしも○○だったら、と想像するだけでも環世界の景色は変わる。ほかの誰かの中心と、ちょっとだけ重なる。
この絵本のすごいところは、それがただの情報じゃないことだ。
読者は宇宙人に出会って、思わずクスッと笑って、クスッが跳ね返ってきてハッとする。
いまわたし、自分だけがフツウだと思い上がっていた?って。
フツウなんて中心の数だけあるというのに。
*
ベビー(2か月)に何度か読み聞かせてみたけれど、明後日の方向を見ていてとくに反応なし。また読もうね。
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