幻だけがわたしのこころ

一方的な愛は相手を傷つける、だけなのでしょうか?文章を書くならばせめて頭の中で纏めてから書き始めろよと皆さまは思うかもしれませんが、今の私にはそれすら出来ないほどに、文章を作成したいという欲と、よく分からないことを纏めておきたいという心が存在するのです。
一方的な愛について。

最果タヒ先生のエッセイ本、『恋で君が死なない理由』の『ブルベの恋♡イエベの愛♡』より引用。「同じ幻を同じ強度で見てくれる人などこの世にはいないのに、二人で同じ「愛」を見れるなんて、人はたまに思ってしまう。ただそれでも、その片割れがひたすら自分の直感を信じて「愛だ」と述べるのは、無駄ではなく、人はそうやって他者のことを信じてみるのだ。信じ過ぎてみるのだ。伝わるんだと。そうやってしか人を想えないし、そうやってしか人は孤独でい続けられない。」

私はこれを見た時、これを心の宝箱に閉まっておきたいと思った。忘れぬように。どの部分が好きかとかは難しいけれど、やはりそうだよなあと、納得というか、共感というか、私のしていることはこうです、とこんな恋をしています、よく見透かしてくれましたねと言ってしまいたい。
私は恋を、それはもう盲目的でどうしようもない愛及屋烏のような恋心を抱いているのだが、同じ幻を同じ強度であの人が見てくれるはずなどないことを知っている。そんなことはこの数年でもう嫌というほど思い知らされてきた事実なのだ。形も色も全く同じ気持ちをあの人が私に抱いてくれている筈などない。関係を、距離を、変えようとするのはいつも私から。君がどこかに行ってしまうことが怖くて、それでも足枷をつけて自由を奪うなどするほど歪んだ倫理観を持っている訳でもなくて、だからせめてこの関係性が地続きでいてくれるように、引き止めて所定内の範囲だけで行動をして貰えるように昨日も今日も明日も、私は行動する。久しぶりに再会したあの日、声を掛けたのは私。写真を撮ろうよと声を掛けたもの私。だけど君は「写真を送ってよ」と言ってくれた。それだけでクソみたいな現実でもきっと生きていけると思った。
頃合いを見て声をかけるのもいつも私だった。それでも君は映画代も、カフェのお金も全て払ってくれた。
次に声を掛けたのも私だった。だけど君は車で私を迎えに来てくれて、私の買い物に付き合ってくれて、夕飯代まで出してくれた。ねぇ、どう思います?この男。男としては100点満点花丸ですよ。でもね、己を愛する女に対する態度としては悪魔なのかなあ、って思うことがあるんです。苦しいんです。あの、苦しいんですよ。それが。その態度が。何時間もくだらない話をするほど会話に困らなくて、一緒にいると落ち着いて、楽しいんです。なのに、私の事どう思っているかは1mmだってわからない。悪魔みたいな男だよ、君は。でもそんな悪魔みたいなところが、手を伸ばしてもどうやったって届かなそうな所が、たまらなく好きなんです。君の透明さが私に光を通して、そして地獄に突き落とす。苦しみの海に突き落とす。突き落とされて、底から見える君の姿がそれでも綺麗で、キラキラと輝いて見えるんだ。だからこの苦しみが死ぬまで続こうとも、そんなことどうだっていい、どうだっていいほど好きだ。愛をしているんです。
この想い…、伝えてしまえば楽になるだろうか。今、私たちの関係はなんでもない。もし何かに当てはめるとするのなら「友達」。それでしかない。しかし友達というのは互いに好意があり、ある程度気が許せるからこそ友達という関係性が成り立っているのである。トモダチコレクションの人間関係内で「友達」は一番低い関係性だが、それでも他人よりは上で、「友達」というステータスは存在するのだ。
だけど、恋って裏切りなのかしら。私たちは現状、友達でそれ以上でもそれ以下でもない、と相手が本気でそう思っているのなら、私が君にLOVEな好きを持っていることは何だか騙しているような感じがして、良い気分ではない。
ただ君が本気で私のことを友達としてしか思っていないのなら、私は「君は本当に恋愛弱者だね、恋愛に向いていないンじゃないかしら」と言い放ってしまうかも。だって、私たちの本当のステータスはただの友達じゃない。私の記憶が正しければ、私が歪んだ視点で君を眺めすぎて幻覚を見ていたのではないのならば、私たちのステータスはトモダチコレクションでいう元恋人だからだ。(なんで全てトモダチコレクションなのだろうか)

君は私のこと、何も言ってはくれないね。あの時の話も、私のことをどう思っていたかも教えてくれない。楽しくて、面白くて、笑い合える、そんな話しかしてくれない。それが苦しいようで、私の心に傷をつけるようで、それでも救われている自分もいる。そんな弱い自分が大嫌いだし、そんな弱い君が私は好き。心が軽くなって空も飛べそうな気がするから。
でもね、私は重い女だから、きっとお空は飛べないんだよ。ねぇ、好きだよ、私のこと抱きしめてよ、本当の気持ち教えてよ、君と一緒にいても気を抜くとそんなことばかり考えてしまう。考えてしまうンだよ。

「その片割れがひたすら自分の直感を信じて「愛だ」と述べるのは、無駄ではなく、人はそうやって他者のことを信じてみるのだ。信じ過ぎてみるのだ。伝わるんだと。そうやってしか人を想えないし、そうやってしか人は孤独でい続けられない。」

信じてみたい。君を。信じ過ぎてみたい。私は君を愛しているし、傍にいたいと思っている。本当に大切で大事に想っている存在なんだよ。でも君を心の底から信じているかと問われたら、きっと上澄みすら信じていないんだろう。君が私を愛してくれるはずがない。私が抱いている愛を君にぶつけてしまえば君を苦しめて、最悪殺してしまうのではないかと、恐れている。君には幸せでいて欲しいし、視点を歪ませてまで気持ちを殺してまで、私のことを愛してくれとは思わない。そんなエゴイスティックな願いは疾うに捨てた。それでも君は優しいから、私の恋心に適応しようとしてしまわないか心配ではある。適応なんかしなくていい、君には君のままで、そのままでいて欲しいんだよ。君の人生に影響を与えたいけど、与えたくない。心が2つ存在するけど、やっぱり君を傷つけたくない。そして、それが私の心をぐちゃぐちゃにして苦しめるのだ。

もしこの仄暗い恋心に救いがあるとするならば…。友人が通う大学の文化祭に行ったことがある。その時のゲストはインターネットで有名な絵師の方であり、その方がイラストを普段通り書きながら、質疑応答を行っていくというイベントがあった。(改めてやっぱすげぇな)その際にその方が「希望とは未来に期待すること」と仰っていたことを私はずっと覚えている。それこそこの言葉は私の心の宝箱に大事に大事にしまってあるのだ。
「未来に期待すること」、私が恋愛においての期待することとは例えば外出した時にここに君がいたらいいのになとか、面白いことがあった時にこの出来事を共有したいなとか、美味しいものを食べた時に今度は一緒に食べたいなとか。そうやって共に時間を共有して、私の人生が君の人生と交わるようになることが私にとっての希望であり、未来に対する期待なのだ。私は君の恋人になりたい。恋人になって君と時間を共有したい。君の当たり前に、なりたいんだよ。それが幻なんだろう。君の傍に、変わらずいたい。その希望が私の生きている源、元気の証、私の仄暗い世界に射し込む一筋の光なのだ。
では絶望といえば、極めて簡単。その未来がもう二度と来ないと考えること。私は君にとってもう、何の関係もない人間。生きていく上で何の影響もない人間。死んでも君の世界を変えられない人間。そうなることを、そうなってしまうことを、考えるだけで鬱、鬱、絶望。

今私は凄く曖昧で苦しいけれど優しくて呼吸がし易い薄氷の上に立っている。行動次第では、その未来は現実になることもあれば、ならないこともあるのだ。

君は私が好きですか?1mmでも友達としてでも好きなら私にとってそれで構わない。それで構わないからずっと傍にいて欲しい。もし君が恋する気持ちがわからないとか、恋愛に興味がないだとかだとしても、それなら他の誰かでもいい、恋をするまで恋愛に興味を持つまで、期間限定だけでいいから私の傍にいてください。私のこと利用するだけ利用して、それから捨てても、構わないから。お願いだから。
私の好きは、それでもいいくらいの好きだよ。これは横槍メンゴ先生の漫画、『クズの本懐』に登場する鴎端モカのセリフの引用でございます。

未来も希望も絶望も、確実にしたい。例えその答えが絶望しか残らなかったとしても。君以外のことは考えられないけど。ちゃんと向き合うから。

重い私のそばにいてください。この恋心と執着心を大好きな君に告白する覚悟を決めました。例え、互いに傷ついて傷つけあったとしても、それは美しい傷として私の心に残り続けるはずだから。

また報告します。

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