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もうちょっとだけ先のエンドロールに


生きてゆくことが非常に面倒である。それは決してもう全てどうでもいいとか、死んでしまいたいとかそういう訳ではないのだけれど、人生って長すぎるし、私の人生は物語ではないので終わらない。人生はドラマみたいに終わって欲しい。とてつもない幸せを感じた時、何かを成し遂げた時、何かが始まる前に、エンドロールが流れて、人生に関わってくれた全ての人に感謝して、終わる。そうしてもう二度と物語の幕が上がらなければよいのにと何度も思った。だけど現実はずっと続いてゆくし、物語はいつまで経っても終わらない。私の人生は私が死ぬまで終わらないし、それは唐突にやってくる。でも私はものすごく死ぬ事が怖いし、生きることに執着しているから死を選ぶとかそういう訳ではないけれど。
消失願望とは、きっともう生きていたくないと思う時に生まれるもので、それが痛みを伴うとか、苦しさを必要とするわけではなく、ふいに例えば幸せを感じた時、例えば喪失感を感じた時、例えば絶望した時に、ふと生まれるのではないだろうか。そしてそれは大した事じゃなくて、ずっと見ていたアニメが終わるとか、友達と遊んだことが楽しかったとか、そう思った瞬間なんじゃないですかね。そういった時に、日頃、生と死の境界線を歩いている人はふとその「また」ということに希望が持てなくなる。またなんてあるのか。この虚無感とどこにも居場所がないような寂しさ、生きていたくないという気持ちに、戻りたくない。怖い。それが嫌だ。横這いのこのグラフが急に地に落ちてゆくその瞬間が怖い。その、瞬間を迎えたらもう自分は生きていけるとか行けないとか、それ以前に大切なものを失ってしまうのではないだろうかと希望をもてないでいる。今日も風呂に入り、寝て、起きて、リセットされた時間を今日も生きてゆける人間はきっと少なからず希望を抱いでいるから、今日も生きていけるんだと思う。それがふいにそんな未来存在するのか、これ以上の幸福感をこれから先抱けるのか、と未来に希望をもてず、絶望した時に、初めて生きてゆくのことへの希望を失うのではないか。今日が最終回で、エンドロールが終わったら、もう幕が二度と上がらないでいて欲しい。もしも明日も朝が来るのなら自分はもうこれ以上は空っぽになってしまう。そういう危機感をふと、本当にふと感じた時、人は生きてゆくことを辞め、私たちの目の前からいなくなってしまうのかもしれない。それはすごく悲しいことだし、すごく辛いことだと思うけど、誰にでもある生きることへの恐怖。そして死への誘惑なのかもしれない。

私が言えることは少ないのだけれどとにかく辛いことは抱え込まずに誰かに相談したり、誰かを頼ったりしてみるしかない。自分はひとりじゃない。独りよがりだとついつい周りの存在が鬱陶しく思えてしまう時もある。だけどその人たちはきっと私たちを追い詰めるつもりはないし、生きていて欲しいと、願っている。それが自分のメリットだとか、損得勘定とか以上にやはり、突然何も言わずにいなくなってしまうことは誰にとっても辛いことだし、耐え難い事だと思います。
突然、夜になると押し寄せる死への憧れはきっと心臓が痛くても、涙が出るほど苦しくても一晩耐えれば必ず朝はやってくる。その朝が本人にとってどれだけ辛い朝でも、容赦なく、それでも平等に必ず朝はやってくる。人間はきっとドラマみたいに自由に終われないし、自分の人生を手放せない。だけど人生は死ぬことを選ばなくとも、投げ出そうとすれば案外投げ出せるものだし、適当に、呆然と時間は過ぎてゆくし、生きていようと思えばきっと、誰にでも同じ日は沈み、同じ日が登る。私の言っていることは憶測でしかないし、きっと、もっと私が想像できるよりも辛い思いをしてしんどくて生きていたくないって思う人もいるだろう。だけど誰にでも平等に夜が来て、夜が明けると朝が来る。それが均等に容赦なく、残酷に人間には与えられているのだ。だから、それなりに生きて死ぬまでは、生きていて欲しい。神様が決めた寿命というエンドロールを迎えるまでは。これは自分への戒めであるが、これを読んで救われる人が一人でもいるならばそれ以上に嬉しいことはない。
生きているやつが一番偉い。

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