見出し画像

円熟を思考する

今日から如月。最近「円熟」という言葉が脳裏に宿ることが多いことから、その言葉の定義を調べてみることにした。
日本人として人生を重ねていると、どこかで見聞いたような言葉達が、年齢を増すにつれてふとお知らせのように舞い降りてくる。

oxford languages の定義によると、円熟とは、
十分に熟達して、ゆたかな中身をもつに至ること。

なるほどな、と妙に心得られる気がした。

円という言葉時代が丸い形を帯びるという言葉の意味を含むことは知っていたが、その意味を知ることで、この言葉の響きがより丸い円球、しかも安定を放った温かさをもつシルエットのように浮かんでくるのである。

どうして私はこの2文字について深く対峙したいと思ったのだろうか。
恐らく間違いなく人間性という観点からこの言葉を意識していたことは言うまでもない。

私の人生は他の人と比べると少なからず遠回りをしている。今の職業に辿り着いたのも、紆余曲折を経てからである。20代後半で実習を経験した時、師事していた先生から、考えの浅さを指摘された。指摘されたこと自体が当時はとてもショックだったし、反感さえ抱いたものである。しかし自分なりに内省しようと試みて30代に入った。すると今度は、その道の先輩から、「見て覚えよ」のスタイルを突きつけられた。
同じ昭和世代とは言え、あまりに無責任な相手の振る舞いに私は怒りを感じ、再び反発と主張をした。
そして今、自分が彼らと同じ年代に達してから思うことは、まさに円熟こそ人間性の完成ではないか、ということである。

若さとは未熟さと鋭さを共にする。しかしだからこそ、円熟への過程を経るのである。
だが、この荒んだ世界、日本で生き抜こうとする時、あまりに円熟を阻むものが多いのも事実である。
いじめ、偏見、差別、男尊女卑、集団文化
あまりにも社会で起きているハードルが多すぎるような気がする。繊細な心を持つ人たちは、それを無視できないが故に葛藤し、心を痛めて社会から距離を置くか、消えることを決断することを余儀なくされてしまう。

ここまで読んで、それに関する様々な社会現象、ニュースが浮かんだ人もいるかもしれない。起きている現象からそれを汲み取れる人はそんなに多くない。
どれだけ人間が視覚的、聴覚的に情報アクセスを表面的に処理しているか。
心に響かせるというのは、それだけ難しく、稀有なことだとも言えよう。

未熟の対極が円熟だとしたら、未熟のケアこそ大切なのではないだろうか。それなくして円熟な人間は形成されないし、円熟な社会も成り立たない。

これまでの日本はまさに、未熟さから円熟に至れないものは、競争社会から落第した者として取り扱われてきていた。
転職回数が多いと、ダメなレッテルを貼られるとか、家庭環境がダメだと品格が低い印象を持たれるとか、そんなことだらけである。

息苦しい日本に生きるメリットとは何なのか。
悩みから命を落とす人が絶えない自殺大国日本で、円熟ということについて思考する機会を持てるかどうかは、非常に意義深いと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?