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ご質問にお答えします!『脚本家としての才能がある人とは?』

脚本家志望の方から、こちらのご質問をいただきました。

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ご質問、ありがとうございます。

「この人は才能があると思うとき、どこを見てそう思うんでしょうか?」とのことですので、まずは、私が脚本家志望の人や同業の人を見て「才能があるな」と感じるのはどんな時かをお答えします。

これは単純に、作品がずば抜けて面白いと感じたときですね。
作品以外の言動であったり、立ち振る舞いに対して才能を感じることは私の場合ありません。
「言動に才能がにじみ出る」ということもあるのかもしれませんが、私にはそれを見極め、ジャッジする能力はないですし、「ああ、この人は才能があるんだなぁ」と感じるのは、完成した作品を観て「面白い!」と感じたり、原稿を読んで心を動かされたりした時です。

矛盾したことを言うようですが、人の心に響く作品を書く人がみんな天賦の才のみで書いているとは、私は思いません。
むしろ大半の人は、努力や研鑽による部分が大きいはずだと思っているのですが、それでも「こういうトーンのものは、自分には書けそうもない」「敵わないな」と感じる時に、思わず「才能がある」という言葉が口から出てくる気がします。


さて、ここまでは現在の私が「才能」という言葉をどう使っているかを書いてきました。
ここからは、脚本家志望だった頃の私が「才能」という言葉をどう捉えていたかをお伝えしたいと思います。

脚本家になりたくて、でもなかなかそれが叶わず、もがき続けていた頃、私は「才能とは何なんだろう?」ということを嫌になるほど考えました。
「果たして自分には才能があるのだろうか?」ということが不安だったからです。
自分なりに必死に書き続けてはいるけれど、結局、才能がなければ何の意味もないのでは?という疑問が頭に浮かぶ瞬間があり、その度に「私って才能あるのかな?」と思い悩んでいたわけです。

ですが、自分の才能の有無を確実にジャッジする方法など存在せず、私の不安は大きくなるばかりでした。
一番不安だったのは、”脚本家予備軍”としてプロットライターをしていた頃です。
「脚本家になれそうで、なれない」という日々が続き、「これはチャンスなのでは?」という局面が訪れる度に「今度こそ!」という思いと、「どうせまたダメなんだ」という諦めの気持ちが同時に湧いてきて、苦しかったです。
詳細は省きますが、この時期にはトラウマレベルのつらい出来事に出くわす確率も高く、そんな経験を繰り返すうちに私は、
「これって、まるで誰かに『こういう目に遭ってもまだ、脚本を書き続けたいのか?』と試されてるみたいだな」
と感じるようになりました。

「誰か」って誰なんだ?って話なんですが、なにか”シナリオの神”みたいな存在に試されている気がしてたんですよね。
今思うと、自分でも”スピリチュアルかぶれ”みたいな感じで、ちょっと気持ち悪いなと思うんですけど(笑)、当時は真剣にそんなことを考えていたんです。
そしてある日、こうも思いました。
「この先、脚本家として一本立ちできる保証なんてどこにもないし、心を削られるような嫌な思いも何度もしている。なのに私は、脚本を書き続けたいと思っている。もしや、これが才能があるってことなのでは?」
言い換えると、
「自分に才能があろうがなかろうが、書きたいから書くんだよ!と、思える人間こそが、才能ある書き手なんだ」
と思うに至ったわけです。
こう考えるようになってからは、少しは気持ちが軽くなりました。

これでお返事になっているのか不安ですが、私からお答えできるのはこんなところです。

これからもお互いがんばりましょう!

ご質問のある方はこちらからどうぞ。
※シナリオコンクールの規定、審査基準に関してはお答えできませんので、その点はご了承ください。


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