偶然にちゃんと振り回される
ものごとの繋がりを感じるとき。直接的ではなくとも、それはたくさんのヒントを与えてくれているような気がする。
仲良くなった友人と、何気なく話していると数年前同じ街を歩いていたことがわかる。その時知り合いではなかったけれど、もしかしたらどこかで、すれ違っていたかもしれないねと言い合い、うれしい。
同じキーワードを続けて聞くようになる。「イギリス」とか「カメ」とか、変てこなものでもいい。まるでスパイが組織から暗号を受け取るみたいな不思議さで、なにかが示されていることを感じる。それを察知する。行くべき場所がわかって、そこに行くとラッキーに出会ったりする。
いわゆる「勘のよさ」は人生においてどんな役割を果たすのだろうか。目が見えないと困る、耳が聞こえないと困る。でも、勘は?接する人とか、その場所の空気とかによって、そこに自分が居てよいのかが分るために”勘”は必要だ。そこに居てよいか、悪いか、というのもどういう基準なのかと言われるとすごく説明がむずかしい。善悪の判断ではなく、美醜の問題、はたまた心地良さの問題。
ただ、「勘のよさ」と「繊細さ」はちがうと思いたい。勘のよい人であっても、大らかでいることはできると思う。あちこちに勘を研ぎ澄ませていると、だんだんその情報量の多さに疲れてしまうことがある。疲れていると、サインの理解を間違えてしまう。深読みしてしまったり、疑心暗鬼になったり、それはただの過敏であり、エゴだ。
大事なのはいつも、運命に身を委ねていること。自分の手の中にあると思ってはいけない。私の分からない範疇へ、もっと大きなものに、目を向けなくてはいけない。
それが、「偶然にちゃんと振り回される」ことなのだと思う。哲学でいうところの、運命決定論的な考えになるのだろうか。
前回のnoteで、マイペースを極める、ということを書いてから、どんどんそのことについて考えるようになった。今の私にとって、いちばんマイペースだと思う選択を、心地よくできるようになっている。
そんな中で、予期せぬことに出会うと取り乱す。自分の意図した方向に行けばいいなぁ、と操作したくなる。
でも、マイペースを極めることと、偶然に振り回されることは、本来同居できる考え方だ。
「勘のよさ」の話に戻ろう。勘がいいと、大体の展開が読めるようになる。きっとこうした方がいい、と分かる。同時に、これはしない方がいいと思うことにも目をこらそう。しない方がいいときのサインは大抵《ちょっと不快》にある。
あれ、もしかして私はこれを我慢しているかも、と気づくことのできる勘。それはどんなに好きなことであっても、気持ちの悪いこと。だからほんとうに気がつきにくい。そして、その《ちょっと不快》なことをなるべくなくしていく。
偶然に振り回されると、それはそれは不快さを覚えるだろう。偶然にちゃんと振り回されていないからだ。
「振り回さちゃってるよ〜迷惑だなぁ〜」という方に意識がいっている。振り回されることが当たり前だったり、それこそが自分の今の居場所(運命というような言葉を使いたくはないが、そうとしか言えないもの)なのだと、心で分かる。
すると、《ちょっと不快》なことではなくなる。ご機嫌に笑っていることができ、「マイペース」でいることができる。
偶然にちゃんと振り回されることと、マイペースでいることは、こうやって共存する。
エチカ
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