雑文「政治的ヌヴィレット礼賛(近況報告2023.10.13)」

 原神の第4章、ヌヴィレットの伝説任務をクリア。諸君に「アカの手先」と思われたくないので、もう二度と言及するまいと心に誓うのですが、ストーリーのすばらしさが毎回それを超えてくるのです。課金量を調整するため、「男性キャラは引かない」というハウスルールを敷いている萌えコションにも関わらず、終盤のムービーにおける「水龍、水龍、泣かないで」のセリフにふいをつかれて号泣し、ナヴィアとフリーナのためにとっておいた原石をすべて吐きだして、ヌヴィレットを引いてしまいました。ヴァイオレット・エヴァーガーデンのときにも少し触れましたが、オタクの自己定義とは、正しい見本や教育を得なかったために人としてのふるまいを教わらず、「人間社会にまぎれこんでしまったエイリアン」として毎日をやり過ごす者であると指摘できるでしょう。それゆえ、己の日々の苦闘や人生の辛酸を体現するかのような「人に憧れ、人を知り、人になろうとする」キャラクターたちに、とても強く共鳴してしまうのです。「感情を排して論理的にふるまおうとするためにセルフケアがおろそかとなり、結果それがむきだしのウィークポイントとして露呈する」ーー古いオタクに自己投影を促してきた、おそらくはミスター・スポックを源流とする人物造形の最新のかたちが、ヌヴィレットの上に表れています。

 書き手にとって、かなり取り扱いの難しいキャラクターのはずですが、本人にはいっさい感情を語らせないまま、周囲の言動や時々の情景をていねいに描写することで彼の内面の輪郭が浮かびあがる図式は、じつに見事な手さばきです。さらには描写されたその内面が、「もっとも賢い者が持つ心の陥穽と、長く続いた差別構造の解体」というストーリーラインへと自然にリンクしていく。原神が導く「どうすれば、この世から差別がなくなるのか?」という究極の問いへの回答は、ズバリ「争いをやめてから、数百年が経過すること」であり、ここには差別の解消が進んでいくにつれ、ある段階において人権活動が構造解消の足かせになることへ向けた批判すら含まれています。「同じ過ちを繰り返さないため」という表向きの題目が、その裏で「活動によって己の口を糊すること」につながっていないかを自覚し、抵抗運動の自己解体までを差別の解消に織りこむことは、おそらく容易なふるまいではありません。近年の世界情勢を見るにつけ、「数百年に向けた数十年の前進が、またゼロからのふりだしにもどった」ような状況は慨嘆にたえませんし、「『だれもが死ぬ』という事実が教育を生んだが、教育では多くの憎しみを消せない」というシンプルな無力感は痛切ですが、原神のストーリーは「真に世界市民的」な態度でそこへ向きあっており、我々の見る現実と物語のシンクロニシティが意図的か偶然かに関わらず、「いま」を生きる同時代のだれかによってつむがれているということが、ひしひしと伝わってくるのです。

 12の言語で世界展開するゲームのストーリーを語る主体は、自国による文化的検閲や各国の政治情勢について、けっして無頓着ではいられないでしょう。最近どこかで「学生運動を正しく鎮圧できなかったことが、過去から現在に至るまで本邦の大きな負債となっている」という指摘を見かけましたが、マネジメント側から見ると大いにうなづける話です。これは刑罰を適切に与えなかったという意味ではなく、「自分たちが間違っていた」と彼らに思わせることが、ついにできなかったという話なのでしょう。本邦において、一定の歳月を耐えた組織に根深い野党的な言説というのは、「母体に害をなす致死性のヴァイラス」であり、発熱によるこらしめにとどまらず、後遺症を残したり、死につながるような暴れ方さえする。自分たちの非をいっさい認めず相手を悪魔化して糾弾し、譲歩を引きだしたり妥協点を見いだすことではなく、批判する姿勢を仲間や周囲に見せることが自己目的化している。最近のフィクションで言えば、昭和の活動家が用いた左翼的論法を無意識のうちに内面化したファイナルファンタジーの最新作などに、「学生運動を正しく鎮圧できなかった名残り」を見ることができます。「世界を変えず、己が負けない」論法を便利な手段として後の世代が学んでしまったのはつくづく大きな負の遺産であり、本邦の歴史に根ざした品性に欠けるその「土着ぶり」は、村上春樹などよりもずっとノーベル文学賞が求める資質ーーqualityではなくnatureーーに近いものだと言えるでしょう。

 大幅にそれた話を元へ戻しますと、昨今の「物語から書き手の内面を想像するな」という意見には、私はまったく同意できません。その主張を認めるならば、同じ題材やテーマで充分に完成された古典がすでに山ほどあるわけで、人類が「異曲」をつむぎ続ける理由とは、商業的な要請を別とすれば、同時代を生きるだれかの生が否応に作品へと混入し、その語り方を変じるからなのです。原神のつむぐストーリーは、両手足を縛られたようながんじがらめの状況から深く思考して、「どの国の、どの年代の、だれにとっても不快ではない」ラインを見きわめた針の穴を通すストーリーテリングを徹底しており、この創作手法こそが真の意味での「政治的な態度」だと言えるでしょう。あと10年もすれば、「テロリストをアイドルと奉じる一群」は死や恍惚によって現世への影響を完全に失います。そこからさらに半世紀も待てば、「被使用者から使用者への逆差別構造」は消えてなくなるはずです。その日を心待ちに、せいぜい長生きしましょう、マネジメントを生業とするご同輩! あと、永野のりこのマンガに青春期の一部をコンタミされていたので、第4章のプレイ中、エリック・サティっぽい一部の楽曲に、なんだか学生時代にタイムスリップしたみたいな感覚を味わったことを、最後にお伝えしておきます。

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