雑文「世界球蹴り合戦、その本質」

グループリーグ進行中

 7大会ほど世界球蹴り合戦を見続けてきながら、いまだにニワカファンを自認している場末の皇族である。「知識の蓄積によってバランスを失い、レーダーの感度が下がることを嫌う性向」は、どの分野においても私がおたくになりきれない原因だろう。話を戻すと、「4年に一度」というのは世代交代と技術継承を目途とした、人間版の式年遷宮みたいなものであり、世界規模の大きな流れに身を預けて浮いている感じがとても好きだ。いま記憶に残っているものを3つ挙げるとするなら、「高校選手みたいな動きなのに、なぜかヘディングだけで点を取り続けるジャーマン」「漫画なら明らかに脇役のオモシロ容姿なのに、なぜか一人で組織をブチ破るブラジリアン」「力石徹みたいなバシバシ睫毛で美形なのに、なぜか決勝戦で選手にヘディングして一発退場になったフレンチハゲ」であろうか。最後に挙げたものについては、激情のさなかでも手を使わない、ジョブ「球蹴り士」連中の本性を垣間見た気がしたものだ。ヤツらはきっとパブや路上におけるケンカでも、頭と足だけで戦うにちがいない。

 そして何より、このニワカが世界球蹴り合戦に強く感じ続けてきたのは、東洋人へ向けた西洋人のゾッとする差別意識である。普段の生活では理性の力によって99%を抑えこまれているその感情が、勝負のアヤを迎えたり形勢が不利になった瞬間、相手チームだけでなく審判のジャッジごと噴き出してくるのだ。言葉にすれば、「アジアの黄色いサルどもに、文明の長たる西洋諸国が劣るなどありえない」という、歴史に根ざした強烈な優越感情である。心の奥底に潜む殺意とも似たそれが、ゲームの結果にまで影響を及ぼすのが世界球蹴り合戦という舞台であり、その場所は令和を迎えてなお、私の中にある「物心ともに汚らしい昭和」と類似したイメージを保持し続けてきた。それが本大会ではどうだ、ピッチ全域に感情も国籍もない人工知能の目がはりめぐらされた途端、バーバリアニズム最後の聖域から人種差別は一掃され、清浄なる公正が実現したのである。球蹴りの本質と骨がらみで切り離せないと信じていた汚辱が、いとも簡単にヒョイと外科手術で分離されてしまったことに、得も言われぬ感動を覚えている。

 もしかすると人間世界は、良い方向に進むこともあるのかもしれない。

質問:サッカーワールドカップのことで質問です。VARのおかげで「人種差別は一掃され」と書かれていますが、どのへんを見てそう感じられたのですか?
回答:具体的には、アルゼンチン対サウジアラビアとスペイン対日本の試合です。これまでの大会ように人間のレフェリーだけだったら、どちらも結果は逆になっていたでしょう。いろいろ記事を眺めていたら、さっそくVAR廃止論が持ち上がってて、笑いました。西洋諸国のホワイトな方々は、悪い意味でブレませんねえ。自由があれば「自由を我らに」と叫ぶ必要はないし、差別がなければ「差別をなくそう」と叫ぶ必要はないのです。

アルゼンチン対オランダ戦後

 ごめん、やっぱこれ撤回する。サッカーって、バーバリアニズムの聖域だわ。


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