ひと月が過ぎて
ダンナ君が旅立ってひと月が過ぎた。
このひと月は、今思うとやっぱり底だった。
意外と何気なく普通に過ごしているつもりでも、ふと涙が出てしまう毎日。
………
先日の事。
自動車の名義変更のために初めて陸運局に行った。
カーナビに従って運転しながら気づいたが、陸運局は某フェリーの発着する港のそばだった。
このフェリーには、病気になる前はよく船内の演奏の仕事で二人で車ごと乗り込んだものだ。
フェリーが着いた先では復路の出港まで自由時間になるので、仕事といいながら半分旅行のノリだった。
ただし体力的にはかなりハードだったけど。
その頃私はまだ免許を持っておらず、ダンナ君が運転して私は助手席に乗るのが当たり前だった。
やはり温泉は外せなかったので湯布院にはよく行ったし、九重の方まで足を伸ばす事も多かった。
うみたまごにも行ったし、定番の地獄めぐりもした。
演奏ではちょっと険悪になる事もあったりして。
往路では毎回フェリーの揺れと硬いベッドに慣れずにほとんど眠れず、演奏の疲れを残して早朝に降ろされるので、復路の演奏の頃には疲労がピークになり、私は演奏前に必ず神経質になったものだ。
そんな時にベーシストらしくマイペースに安定感を出して支えてくれるダンナ君の演奏にいつも助けられていたと思う。
ダンナ君にとっては自由時間のプチ旅行はもちろん、フェリーの非日常感がツボで、いつも子供のような気持ちで楽しんでいるのが伝わった。
ダンナ君の運転で少し高揚した気分で通っていた道を、今度は私が一人で運転している。
空の助手席に向かって楽しかったねー、と呟いてみて、また涙。
……………
闘病が始まってからも、楽しくて宝物のような時間は本当にたくさんあった。
まるでロボのような不完全さのあったダンナ君は闘病を通じてヒトとしてものすごく成長したし、病気のおかげで未熟な二人が『夫婦』になったと言っても全く過言じゃない。
ただ、特にこの一年くらいは逃げ場のない頭のしんどさが常にあったし、おまけに足も動かせなくなっていき、そんなダンナ君の側にいる私もやはり辛かったのだ。
ダンナ君はもうそんな肉体から解き放たれてパーン!と自由になったし、私の方も溜め込んできた辛さ、苦しさみたいな重しがゆっくりポロポロと剥がれ落ちていくのを感じている。
そうしてみると、知らず知らずのうちに随分溜め込んでいたんだなと思う。。
底にいる時はやっぱり自覚がないものなんだな。
ちなみにダンナ君がいなくなってからの一番のどん底を脱し始めたのは、舞い込んできた演奏の仕事のおかげだ。
本気で焦って、ほとんど触っていなかった楽器と再び真剣に向き合い始めた事で、何か呪縛みたいなものが解けていっているような気がする。
私には不慣れなポップスの大きい仕事。
系統的にはダンナ君が得意なやつだ。
私は不慣れだけども、きっとダンナ君ならこうする、というのに倣って臨んでいる。
私がダンナ君をしっかり飲みこんで、もう少しこっちで頑張るよ、、と思いつつ。
そういえばダンナ君は急変する前の腫瘍マーカーが激しく急上昇し始めた頃、某ゲームのエンディングテーマをよく口ずさんでいた。
わたしが死のうとも
君が生きている限り いのちは続く
その力の限り 永遠にどこまでも続く
なるほど、こういう事か。 よし、任せろ。
仕事の方は、感染症の影響が気になる所ではあるけれど。。
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