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年の始まり

喪が空けて最初の新年を迎えた。

ダンナ君がいた時は、大晦日は0時前になると近所の神社に初詣に行き、ワンカップとお菓子をもらって焚き火にあたるのが恒例だった。

知り合うずっと昔からのダンナ君の習慣。

ダンナ君の入院期間にあたった年は私が一人で行ったし、最後の年はステロイドの副作用で大腿骨頭が壊死し始めていて、亡くなった父親の杖をつきながらなんとか少しずつ歩いて行った。

頑固なところがあるダンナ君、そこまで無理しなくても、と思いながらも見守ることしかできなかった。

次々と私達を追い越して行く家族連れを見送っては言いようのない気持ちになったものだ。


ダンナ君がいなくなってからは年末に帰省しているので、今はもうなくなった習慣だ。



先日、姉の義母が亡くなった。

足腰が立たなくなり寝たきりになってから、食べることを拒否し続け、世情の関係で家族は面会もろくにできず一人で逝ったらしい。

姉はぽろっと、排泄も自力でできなくなったらやっぱりハンストしてでも早く逝きたくなるよな、と言った。

それに同意しつつ、ダンナ君の逝き方はそうじゃなかったな、と思った。

亡くなる前日の夜まで、頑張ってゼリーやプリンを口にしていたのだ。


その姿と重なる事がある。。



ダンナ君の病状を鑑みて入った鳥飼いのNPOの繋がりで、悲しい事に今まで愛鳥達が命を落とす様子が数回伝わってきた。

昔実家で飼っていたインコが逝く前日の様子もよく覚えている。


鳥達は皆、最期まで、ギリギリまで食べようとする。

それが生き物の本能なんだな。


死にゆく事について考えるのは人間だけだと言われている。

他の動物達はその都度、あるがままの自分の身体を受け入れてただ生きようとする。

…その力強さと純粋さに心を打たれる。

ダンナ君が生に向かう姿勢はそれと通じるものがあったのかもしれない。

だからこそダンナ君の命は最後にあんなに輝いて見えたのかな、と思う。


ダンナ君がいなくても日常はまわり、たいがいの人にとっては去るものは日々に疎し、だ。

でも私だけはダンナ君が生ききった事を絶対に忘れない。

到底真似はできないけどな。。


そんな年の始まり。













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