見出し画像

月の底は見えない 2 「孤独について」

 今夜も屋上から口笛が聞こえていた。ニュルンベルクのマイスタージンガー。ぼくはただ呼びよせられるままに屋上への扉を開ける。そこにはあの人がいた。
 どこまでも底が見えない井戸のような瞳。肩までの黒髪は闇夜の中でも艶めいている。そして、黒のシンプルなロングコート。首に巻かれたグレーのマフラーがなければ、まるで魔女か死神のように見えた。彼女はぼくを見つめながら、むずかしい顔をして呟く。
「竹田君、世界は誤りで満ちているんだよ」
「こんばんは、つきみ先輩。細かすぎて伝わらないブギーポップのモノマネはいいですから。そもそもぼく竹田じゃなくて小鳥遊ですし」
 ぼくがそう言うと先輩はにっこりと笑う。ブギーポップは笑わないが、月見里つきみは笑うのだ。彼女はもちろん都市伝説上の死神などではなく、同じ大学の六年生にあたる先輩だ。一年生のぼくから見たら大先輩なのである。
「ちゃんとツッコんでくれるところがひよの君の可愛いところだよ。黒いルージュも引いておけばよかったかな。この前、ブギーポップの話になったじゃない?読み直しちゃってさ。やっぱり名作だよね。私は初代とVSイマジネーターとペパーミントの魔術師が好きだな」
 こんなにフランクに接してもらっていいのだろうかと思うほど、クールな外見からは想像できない気さくな人だ。まあ、読書が好きという共通点があるから、というのもあるのだろう。しかし、彼女が友人といるところを見たことがない。一匹狼に懐かれているような不思議な気分だ。
「あら?何か失礼なことを考えているな?口笛一つでやってきた子犬ちゃんの癖に」
 ああ、ぼくは狼ですらなかったか。
「それを言うと反論できませんけど、この前お借りした本を返そうかと思って。これならこの大学でもクローズドサークルになりますね。まさかそんな呪いがあるとは」
 ぼくはトートバッグの中から袋に入れた文庫本を差し出した。中身は日部星花『袋小路くんは今日もクローズドサークルにいる』だ。先日の初対面の時にミステリの話題でひとしきり盛り上がり、特殊設定ミステリでオススメと言われて貸してもらっていた。
「サクサク読めるけど、一捻り効いてていいでしょう?」
「そうですね。現場に入ると事件が解けるまでクローズドサークルになる。犯人ですら外に出られず、もちろんスマホの電波は通じず、窓も割れない階段も使えない。力技な設定ながら、終盤に向けて技巧を凝らしてあってよかったです」
「気に入ってもらえて何よりだよ。また何かいいものがあったら貸すね」
「楽しみにしてます。ミステリの話ができる友人が少ないので」
「そうなんだ。私の方も趣味で通じる人はいないから、話せるのは助かるよ。それで、何かあったのかな、ひよの君?君は顔に出るよね。そこがいい」
 つきみ先輩の瞳がぼくの目の奥を探るようにのぞき込む。狼の前では犬などちっぽけな存在なのだ。さすがにぼくが土佐犬であっても、狼には勝てないだろう。狼の嗅覚は人の数万倍で30億個以上のにおいを嗅ぎ分けられる。特に獲物の体臭などは逃さない最強の追跡者だ、ということを『ゴールデンカムイ』で読んだことがある。つきみ先輩の勘という嗅覚はぼくの心などお見通しということだ。
「実は、相談というか…悩んでることがあるんですよね。先輩はなんでも知ってそうだから」
「何でもは知らないわよ。知ってることだけ」
「とまあこんな気心の知れた仲なので打ち明けますが。ぼくは大学に入ってもうすぐ一年になります。でも、なんだかずっと不安なんです。孤独っていうのかな。高校は授業が基本的に組まれていて何も考えずに勉強していればよかった。クラスでは友だちと一緒に過ごす時間が多くて安心できた。
 大学は高校とは全然違って、自分でどの授業を履修するか決めなきゃいけないし、同じ学部の友だちともいつも一緒というわけじゃない。そもそも、大学で絶対にこれを学びたいと思って進学してきたわけでもないから、余計に不安を感じるんでしょうね。周りを見ると、みんなしっかりしているように見えるし、自由な空間に放り出されてぽつーんと孤独になった気分です。それなりに友だちもできましたけど、普通の大学生ってこんな感じで合っているのかなって…」
 冬の屋上に白い吐息が溶けていく。体温とともに言葉が夜を舞う。つきみ先輩はその離れていく言葉を一つ残らず逃さないように耳を澄ましてくれていた。それだけでありがたいことだと思う。
「ひよの君はマジメなんだね」
「マジメですか?たしかによく言われますが…」
「そして、大学で六年間もブラブラしている私にそれを聞いちゃうところが、可愛いよね」
「うう…それもそうかってそのツッコミは入れづらいですよ!」
「私が言えることは、マジメは今の内に捨てておけ、かな。マジメなままで評価されるのは義務教育まで。これから社会人になって、自由になればなるほどマジメでいることは君にとって足枷になる。私の言葉じゃないけれどね、私が先生と慕っている人の言葉を君にプレゼントしよう。
 『キルケゴールの言葉に“不安は自由のめまいだ”というものがあります。貴方は自由だ。夜の街を好きに歩く事も、出たくない授業に出ない事も出来る。しかし何も自分をそこに引きとめるものがなくどこまでも高く飛べる自由さは、あまりにもどこまでも行けすぎて…不安というめまいを起こすのですよ』」
「いい言葉ですね…どこかで聞いたことがあるような…って、『ここは今から倫理です。』の高柳先生の言葉じゃないですか!」
「あら、知ってたか。それなら話は早い。君に必要なのは、好きなもの、心を動かされるもの、したいと思うことを探して打ち込むこと。今までの与えられた不自由に応えるだけでよかった生活はここにはない。自由も不自由も、自分で選択していける。そして、選択したことに自分で責任を負うこと。その覚悟こそ、孤独の本質だと私は思っているわ。だから、ひよの君の不安も孤独感も当たり前のものなのよ。怖がらなくていい」
 つきみ先輩の言葉はぼくにはまだ夜空に輝く月のように遠くて、でも見上げればいつでもそこに実在しているのだという確証を感じさせてくれた。この人は孤独すら飼いならした狼なのだ。そして、ぼくはその孤独を飼いならした狼に飼いならされる犬でしかないのだった。
「でも、いきなり好きなことをやれって言われても難しいですよ」
「まあ、そうだろうね。ああ!それこそまずは映画を見てみればいいんじゃない?映画を見ている時間は不安に縛られない。君にはまだ学生でいられる時間はたっぷりある。いろんなものを体験して、好きなものを探してみるといいよ」
「映画ですか…。しばらく見てないから、いいかもしれないですね。それじゃ、相談ついでに一つお願いしてもいいですか?」
「…なんでしょう?」
 ああ、この人はぼくが何を言うかわかっている。そんな顔をしてる。ニヤニヤしてる。狼だったらヨダレまで垂らしてそうだ。でも、ぼくは好きなことをすると決めたから─
「つきみ先輩、ぼくと一緒に映画を見に行きませんか?」
 その言葉を聞いた瞬間の先輩の表情といったら!悔しい!
「もちろん、いいよ。でも、私は爆発が起きる映画か、人が死ぬ映画しか見ない主義だからお願いね。家族で『ハンニバル』を見に行く畑の人間だからさ」
「家族もどんな趣味してるんですか!でも、あのラストシーンを見終わって『お肉でも食べに行こうか』とか言いそうな雰囲気がありますよね」
「よくわかってるじゃない。君は家族に紹介しがいがありそうだ」
 いくらぼくでも狼の群れに子犬が一匹、なんてのはごめんだ。それでも、今のぼくを引きとめてくれる人がいるのは大きな救いだった。冬の屋上では今夜も月が横で笑っている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?