「スピリチュアルな世界を、信じているわけではないけれど」

タイトルにもある通り、私は「スピリチュアルな世界」を信じているわけではない。むしろ、家族の影響でそうした「スピリチュアルな世界」を避けてきたように思う。

さて、今回はまず私が「スピリチュアルな世界」について考えるきっかけについて書いていく。そのうえで、「スピリチュアルな世界」への私なりの向き合い方についても記した。

「スピリチュアルな世界」の定義

ここでいう「スピリチュアルな世界」を信じるというのは、

「神様に祈ればきっとどうにかなる」
「ご先祖様が守ってくれた」
「悪いことをしたから罰が当たった」

といったような、判断、行動の軸を存在が証明されていない何かに頼る言動や行為を指す。この定義はあくまでこのnoteを書くうえで私が用意した仮のものであり、本来のスピリチュアルな世界と微妙に異なることをここに明記しておく。

「スピリチュアルな世界」への反発

私の母親は「スピリチュアルな世界」を信じている。今思うと、それは嫁姑問題で苦しんだ母親の、逃避行動だったのかもしれない。

例えば、母親は私や兄を叱るとき、よく「そんなことしたら罰が当たる」という言葉を使っていた。それに対して、中学生くらい頃の私は「そんな曖昧なこと言ってないで、もっとなんでダメなのか根拠を示してよ」なんて生意気なことを言い返す。

今思うと自分の行動のダメなところなんて、自分で考えろと言いたくなるが、当時の私にはそんなこと思いもつかなかっただろう。

話がそれたが、ここで言いたかったのは、母親に「スピリチュアルな世界」への信仰があったこと、そしてそれに対して中学生以降の私は反発心を抱いたということである。

「スピリチュアルな世界」への違和感

ただ、そうした反発心も年を重ねるごとに薄れていき、大学に入るころには反発心を持っていたことすら忘れていた。それから私が再び「スピリチュアルな世界」について考え、かつ違和感を感じ始めたのは、就職活動を始めた大学3年生の頃からである。

就職活動は大変だったものの、私は無事に第一志望の企業に内々定を頂くことができた。就職活動をしていくにあたって、母親が随分と面倒を見てくれていたこともあり、私は真っ先に母親に内定通知書を見せた。母親は大いに喜び、第一声でこう言った。

「よかったねぇ、神様のおかげだ」

私が第一志望の企業に内々定を頂けたのは、はたして「神様のおかげ」なのだろうか。もちろん、私一人の力で勝ち取ったものではない。母親はもちろん、父親や兄、祖父母、友達、ゼミの教授などなど、様々な方に協力してもらったおかげの結果である。

その中でも最もお世話になったのが母親であり、その母親が神様のおかげというならば、それを否定しようとも思わない。けれど、どうしても母親のこの一言に違和感を持ってしまっていた。

「スピリチュアルな世界」と母親

就職活動も終わったあと、卒業論文の執筆も自宅での作業がほとんどだったため、実家で母親と過ごす時間が多くなった。そこで母親の行動をなんとなく意識してみると、その行動のほとんどに「スピリチュアルな世界」への信仰が潜んでいることに気が付いた。

例えば、家具の配置から枕の向きまで、家の中の全てのものは風水によって決められていた。また、家の整理をしているとき、幸運を呼ぶ、金運アップといった文字が並んだ本が何冊も見つけたこともある。最近では、YouTubeにはまって、母親が心霊系と開運系のチャンネルばかり見ていた。

自分は母親のことを全く知らなかったのだな、と思うと同時に、さすがに「スピリチュアルな世界」に傾倒しすぎではと心配になってくる。信じる分には、それで本人の気持ちが楽になるなるなら良いことだと思う。

けれど、この調子でいくと、気づかないうちに騙されて変な宗教とかに入らないかと気が気でない。

今年から就職して、親元を離れたため、そうならないようにできるだけ実家に帰省しようと思う。母親をいじめていた父方の祖父母はもう実家にいないが、身内からも母親を守れなかった父親が母親のことを助けられるとは思えないからだ。

「スピリチュアルな世界」と父親

ここまで、母親の話を通して「スピリチュアルな世界」について書いてきた。この文章を読むと、もしかしたら私が「スピリチュアルな世界」を嫌っている、と感じてしまった方もいるかもしれない。けれど、それは誤解である。大好き、というわけでもないが。

母親の信じているもの、好きなものを否定しないように、私は母親の勧める「スピリチュアルな世界」を理解しようと努めてきたつもりだ。そして、その過程で、「スピリチュアルな世界」も悪くないという感情が芽生えると同時に、「善いことをしたら善いことが、悪いことをしたら悪いことが自分に帰ってくる」といった考えが、私の中に自然と根付いていった。

この考えに納得感を与えてくれているのが、私の父親の存在である。父親は、贔屓目に見ても、とても善い性格とは言えない。平気で他人の悪口を言うし、自分優先で家族を含めた他者をよく不快な気持ちにさせる。本人には他者に迷惑をかけている、という自覚がないので注意しても意に介さない。

けれど、父親のすごい?ところは、悪い行いをした分、悲運なことが自分い帰ってきているところだ。私は父親以上に「悪い」人を知らないが、同時に彼以上に「不運」な人も知らない。他人に迷惑をかけるたびに酷い目に遭う父親を見ていると、神様は本当にいて、罰を与えているのかもしれない、と思ってしまう。もちろん、私にかかったバイアスが、因果応報になっているように見せているだけかもしれないが。

「スピリチュアルな世界」との向き合い方

とにかく、両親の影響から、私は「スピリチュアルな世界」を信じているわけではないけれど、否定もできない状況にある。なんとも中途半端な感情だが、これくらいが「スピリチュアルな世界」への適切な距離感だとも感じている。過度な信仰も、全くの無関心も、両親の姿を見ていると良いものではないように思えるからだ。

だからこそ、「信じていればいいことがある、かも」くらいの気持ちで、これからも「スピリチュアルな世界」に向き合っていこうと思う。

今回のnoteはここまで。

母親に言われたので、明日にでも引っ越し先近くの神社にお参りしてきます。

以上、コトレでした。

追記

引越し先の神社にお参り行ってから数日、それまでの「なんとなく運がないなあ」という感覚がなくなった。

あれ、神様って本当にいらっしゃるのか。

だとしたら、「スピリチュアルな世界」をあまり信用していない、といったようなことを書いてしまって申し訳ありませんでした。

これからも、どうぞよろしくお願い致します。





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