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続・頑張れなくなったときに気付いたこと。

今年1月に投稿した記事「頑張れなくなったときに気付いたこと。」にちょこちょこスキをいただいております。スキの通知が来るたびに自分が誰かから認めてもらえているような気がして救われています。
この場を借りて感謝の念を。本当にありがとうございます。https://note.com/kotonohatsumugu/n/n9bb709f23074

私が「頑張れない」状態が突然嘘のように消えることは無いんだと思う。でも、この「頑張れない」状態がずっと続くことも無いのかもしれない。
今はそう思えるだけで、少しだけ、生きやすくなる。

さて、記事の最後をこんなふうに締めたのですが、今回はその後の私について記してみたいと思います。この世界のどこかで同じように考えている人もいるかもしれません。でも共感できない人の方が多いと思うので、逆にそんな人に「へえ、変なヤツもいるもんだ」と思ってもらえればいいなと思います。

あの記事を書いてから、まずは自分が感じている「生きづらさ」や「頑張れないことへの罪悪感」と向き合おうと思いました。
自己肯定感を高める本や、自己啓発本、最近はHSPの本にも手を伸ばしてみました。そこには自分の感じている不安や、悩み、恐怖を見つめるヒントが隠れていました。なるほど、と思う部分も沢山ありました。
さてその結果、私は「頑張れない」状態から抜け出せたのか。

答えはまだ、です。


「ありのままの自分に十分に価値がある」
「作った自分には作った自分を愛する人ばかり周りに増えるから、素の自分を出していこう」
「頑張れないことを思い切って周りに言ってみたら楽になる」


世の中にはそんなメッセージが多いように思います。実践して「生きやすくなりました」と答える声もよく取り上げられます。

分かる、分かるよ。
それが「できたら」楽になるのでしょう。
でもすぐに実践できるほど、私は素直でも柔軟でも勇敢でもないんですーそんな自分も嫌になりまして、自己嫌悪無限ループ。生産性がない。

だから私はどうにか自己嫌悪から抜け出そうと考えた結果、「過渡期にいる」と思うことにしました。
ダメな自分→ヒント→改善
ではなく、
ダメな自分→ヒント→ヒントを応用する時間(←今ココ)→改善
と思えば、すぐに自分自身が改善されないことへの緩衝材の働きをしてくれます。

「だって、今考えてるんだもん。答えまで時間をくれよ」と。

まあ、それって誰に向かっての言い訳かって、自分への言い訳なんですけど。そもそも私が「頑張れない」の奥底ー根元には、自分の価値が分からないところにあるんじゃないかな、と最近思っていまして。

今の自分に全く価値を見出せなくなり、「何やってんだろう」と不安に駆られている状態に、やがて「何をやってもダメなんじゃないか」と思い、「あれ、今自分が何がしたいのか分かんなくなってきた」ーその結果「頑張れない」。

「頑張れない」自分が嫌いでさらに自分に価値が見出せなくなる。
今までそんな感情に蓋をして「いや、そんなん自分が頑張ればいいだけ」と力でねじ伏せてきたのですが、いつしかねじ伏せる力が湧かなくなったわけです。
そこに明確な理由はありません。だから言い訳が必要なんです。言い訳でもしておかないと、得体に知れない不安に襲われるんです。

「私、何やってんだろう」「このままじゃだめだ」って。


この不安というのはどうしようもない化け物だと思うんですよね。
倒せるもんなら倒したい。完全に倒せなくても立ち向かうくらいはしたい。でも化け物の攻略法は人によって違うから、答えは自分で見つけなくてはならない。さらに見つけたら、それを使いこなせるようにならないといけない。
そんなきっと誰もができていることが、私には簡単にできないのです。
時間がかかるわけです。
しかし現在、明らかに人と会う時間が減りました。減ったおかげで、私は人の目を気にしていた時間を自分の内側に向ける時間を増やすことができています。(今の情勢が良いと言っているわけではありませんので悪しからず。どっちにしても人と会うことを避けてはいたと思います。)
私は今を、これからの自分の為に必要な「過渡期」だと思うことにしました。やっかいなのは、この過渡期に明確な終わりは決まっていないことですが。「いつか」楽になるのかもしれない、という希望的観測。だからといって「いつまでに」と期限を決めてどうにかなるものでもない。どうにかなってたらもう既にどうにかなっているはずです。
だから私は言い訳をするんです。

「いつ終わるか分からなくても、変わりたいなら考え続けるしかない。今考えてるから、答えはすぐに出なくてもしょうがない」と。


なのでとりあえず、私はまだ「頑張れない」中で生きています。
それが良いとも、悪いとも思わないようにしています。
でも知り合いに聞かれたらなにを甘えたことを、と言われそうなので、noteでだけの秘密にします。
実際言ったところでなんにも解決にはならないし、逆にそんな情けない自分を積極的にひけらかすことは自分の首を絞めることだと思うので。


最後に。
そもそもなんで「頑張れない」ことがしんどいのか考えました。
「頑張れない」自分が好きじゃないからかもしれないって思いました。じゃあ「なんで好きじゃないのか」って自分に問うと、「分からない」って答えられます。多分理由はあるんだと思うけど、多岐に渡っていて今の私はうまく言語化できないんだと思います。なんとも幼稚な。
「じゃあ逆に好きな自分は?」と問うと今の自分が持っていないことばかりがスラスラと挙げられます。それでは今の自分を到底好きになれないわけです。
でも、自分で自分を愛せないことは、他人からの愛を理解できないことだと遅ればせながら最近気付いてしまいました。知ってはいました。でもそういうものだって教科書に書かれた公式のように頭で理解したつもりになっていただけだったんだと思います。
褒められても慰められても、何を言われても気を遣わせているような気がして、そもそも何故こんな自分へ好意が向けられるのかが理解できないことがあるー
それを自認したとき、背筋がゾッとしました。
ああ、私は私が好きな人たちからの贈り物を全て開けもせずに捨てているんだ、と。
自分が捨てていることにさえ気付かなかったことに、胸の奥から温度が消えていくような心持ちになりました。
逆に自分の贈り物は捨てられてもなんとも思わないこともまた、おかしな感覚なんだと気付きました。
それについてはまだ全然答えへの道筋は見えていないので、大きな課題です。気付いたからにはちゃんと向き合いたいな、と思います。


ここまで読んでくれた方がいらっしゃったら、私のことを残念な社会不適合者だな、と思われるかもしれませんね。私もそう思います。
でも面白いことに、そんな人間も電車にも乗るし、出勤もするし、少ないながらも人付き合いがあって、スーパーで買い物をして、税金を払って普通に暮らしているんですよね。
だからもしかしたら、案外みんなそんなもんじゃないかって思う時もあります。否、そう思ってくれる人がいてくれたらいいな、という願望なだけかもしれません。
こんな記事もいつか羞恥と共に笑ってしまえる日がくるように、私は考えることをやめてはならない、と言い聞かせるばかりです。

読んでくださりありがとうございました。

2021年2月1日 追記公開しました。
「続続、頑張れなくなったときに気付いたこと。」
https://note.com/kotonohatsumugu/n/n2cd7bda05479


最後まで読んでくださってありがとうございます。