手ぶらで生きる

子供と近所を散歩するときには、手ぶらで出る。
スマホも携帯も持たず、外に出るのは新鮮で何物にも縛られない気軽さがある。

ふと子供を見ると、子供も手ぶらだ。
手ぶらの子供は次から次へと、興味があるものを触ったり拾ったり、ときには口に入れたり(それはやめて)と大忙しだ。
これは何も持たないから出来ることだ。
何も持たないから多くのものに触れることができる。
何も知らないから多くの体験から学びを得ることができる。
これが少しばかり成長すると、ぬいぐるみが手放せなかったり、お気に入りのカバンにこれでもか!というほどおもちゃを詰め込んだりし始める。
そうすると手が塞がっているから十分にものを手にすることが出来なくなるばかりか、手にしたものから得られたはずの経験も得られなくなる。
そう考えると、
持たないことや知らないことは恥ずかしいことではなく、無限の可能性を秘めているのかもしれない。
子供と散歩しながらそんなことを思った。

現代はとかく物があふれている。
その中で取捨選択するのは自分自身のはずだが、
果たして自分自身が本当に欲して得ているものはどれくらいあるのだろう。
必要もないのに必要だと思い込まされて得ているものも多いのではないだろうか。

自分を振り返っても、大して必要もないのに友人が持っているから、流行っているから、なんとなく・・などで手にしたものも多い。
だから家の中にはそんな本来はいらないはずのものであふれている気がする。
あ、断捨離しよう。
いらないものは手放そう。
唐突にそう思った。
本当に必要なものだけの空間はきっと心地よいはずだ。

必要なものを一つ一つ見定めて得始めた今、必要ないものとは感謝してお別れするときに来ている気がする。
少しずつでいい。
必要なものを見定めるのと同じように、必要ないものも見定めよう。

生まれてくるときには手ぶらなのと同じように、
どうせ、死ぬ時も何も持ってはいけない。
だったらなくなる最期の時まで心地よく生きられるように好きなものに囲まれて生きたい。
私にはその自由が与えられている。


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