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あしたのために~発達障害とわたし~

    いま、午前4時16分。寝ていない。すっかり、昼寝夕寝のくせがついてしまった。一時は朝型に戻せたのだが、もともと典型的な夜型人間なので、体調に合わせているとこういうことになる。
    わたし。精神障害者手帳二級。発達障害と気分変調症を患っている五十五歳。女性。未婚。こども、パートナーなし。障害者年金のおかげで、高齢の父とともに、日々地味に暮らしている。いわゆる8050問題、とかいうものにあてはまる、と、思う。
    なにせ病気の関係で料理らしいことはほとんどできないし、もともと父とは食べ物の好みがかなりちがう。お互いの食事は個々にまかない(わたしは冷凍食品にかなりお世話になっている……、健康的かと問われると、疑問ではある)、洗濯も別々。要はわたしは自分の面倒しか見ない……それさえも不十分ときている。
    歳を追うにつれて感覚過敏がひどくなり、歯医者と美容院が苦手で、お金も大してないため、歯はボロボロ、こないだやっと切った白髪まじりの髪は、コロナ禍のあいだ伸ばしっぱなしだったりと、身なりは悲惨。ここ三年ほどは、かなりマスクに助けられていた。家にこもりがちで、あまり出かけなくてもそんなにあやしくないし、コロナさまさまだった、というと、不謹慎、と非難されるのだろうか。そうされても、しかたない。年相応の立派な人間とは言えないし。精神年齢はたぶん十代で止まっている。これでも病人なので許してください、とおねがいするしかない。気分変調症の方はともかく、発達障害は、治る治らないという問題ではないので。
    しかもわたしの場合、発達障害とはっきり診断されたのが五十間近という遅さだったので、それまでの人生でかなり疲れきっている。他人から見たらなんてことないようなことがうまくできなくて、それを性格の問題とされつづけたことで、診断されたときにはほとんど、元気とかやる気とかそういうものは残っていなかった。いまもときどき、死にたいと思うことがあるほどに、わたしの心は、閉じこもっている。
    楽しいことが、ないわけではない。おもしろいことには笑う(もっとも、最近のテレビで、本当におもしろいと思うものは少なくなった)し、最近は趣味に前向きになってきた。こうして、文章を書けるようになっているのもそのひとつだ。それでも、心の奥にはまだ鬱屈したものを抱えている。
    昔からここまでひどいわけではなかった。そう……いつから話せばいいだろう。さかのぼれば多分、赤ちゃんのころから、になる。

    昭和四十年代。わたしは三つ上の兄がいる大阪の家に生まれた。父の稼ぎだけでは家族四人暮らすには心もとなく、母はわたしが生まれてまもない時期から内職に必死だった。
    いまはもう亡き母いわく、「いつまでも寝ている子だった。ほとんど泣かなかった。おかげで内職がはかどった」とのこと。この時点でなにかの異常を疑われてもおかしくないのでは……と思うのだが、母も生活に必死だったのだろう。帰ってきた父が「たまには抱いてやらんと可哀想や」と言うほど、熱心に働いていたようだ。余談であるが、いまでも日にトータル十時間ぐらい眠っている。
    異常かと思われはじめたのは、もう少し大きくなってからだ。ほとんど口をきかない。耳は聞こえているようだ。しかし、話さない。三歳のころ、自閉症を疑われる。この当時、発達障害という病気は、知られていなかった。少なくとも一般的には。
    やがて幼稚園に行くようになる。すると母はフルタイムで保険会社で働きはじめた。母はほとんど迎えに来なかった。当時はいまとちがって、こどもがひとりで帰っても特に問題視されなかったのだ。が、幼稚園の先生が見かねて、「お母さんが迎えに来るときは、全然表情がちがいますよ。もう少し来てあげてください」というほど、わたしは孤独をかみしめていたようだ。友達がいないわけではなかったが、発達障害あるあるで、集団行動、規則正しい行動になじめず、よく家に帰って泣いていたのを思い出す。
    兄は、こどもなりによくわたしのめんどうを見てくれた。友達と遊ぶときに連れて行ったり、一緒におつかいに行ったり。わたしたち兄妹は、市場ではすっかり顔なじみだった。お店の人たちはみんな親切だった。ひとりで思いきり遊んだりしたいときもあっただろうに、兄はわたしにいやみを言ったり、拒んだりしたことはなかった。母が、そんな兄に甘えすぎだと、知り合いの人に注意されたこともあったほどに。
    わたしはわたしで、決して社交的ではなかったが、数少ない自分の友達と遊んだり、家で黙って本を読んだりしていた。この当時から本が好きで、朗読レコードつきの絵本が、わたしの子守りだった。親が絵本の読み聞かせをしてくれた記憶は、ない。あとは、テレビ。物心ついたころは、まだ白黒だった。レコードと本とテレビの影響か、最初は標準語を話していたらしい。そう。いつのまにか話すようにはなっていた。

    やがて、小学校に行くようになる。三月の早生まれなのもあって小柄で、体育などにはまったくついていけない。不器用で図工も苦手。問題はそれだけではなかった。プリントなどの整理ができない。よくわからなくなると、持って帰らず学校の机に押し込む。ついでに、小さい体には量が多くて、あまりおいしくなかった給食のパンも。これは二年、三年になってもつづき、ここでも兄だよりの母が、わたしたちのクラスが体育で空になったときに、わたしの机を見に行かせた、なんてこともあった。
    運がよかったのか悪かったのか、ケアレスミスを別にすれば勉強はよくできたので、養護学級へ行くという話はまったくなかった。これもいまの時代なら事情がちがうのかもしれない。いずれにせよ、できて当たり前のことができない問題児で、三年、四年と受け持った教師には保護者面談で「正体のわからない子」とまで言われたらしい。この言葉は、長いあいだ、わたしの心に残った。
    ここまで書くと、母はわたしを嫌っていたのか、という疑問が、読む方には生まれるだろう。そうではなかった。一緒のときはとてもやさしくて、よくかまってくれる母だった。発達障害にありがちな偏食(野菜はほとんど食べなかったし、他にも苦手なものがあった)も受け入れてくれた。おそらく、先天的な異常を察していたのも母で、わたしの部屋もこまめに掃除したり、よく学校の課題を「お母さんやろうか」と声をかけてきたりした。ばれるので断ったけど。ただ、「一緒のとき」そのものは、とても、短かった。
    父は何も気づいていなかった。多分いまでも「発達障害」がどういうものか、具体的にわかってはいないと思う。もし、母がいまも生きていたら、「お母さんがほったらかしにしたから、ごめんね」と、何度も泣いて謝っていただろう。発達障害は先天的なものだし、そんな詫びも聞きたいとは思わないので、母の死後に判明したのは、幸いだった。
   
    中学生になって、学校が楽しい時期もあったけど、先生たちは好きではなかった。注意されたり、かまわれたりしたくないから、校則は守る(唯一の例外がまんがの持ち込み)。掃除もやる。親が呼び出されたら困るから、サボりもしない。保健室にも行かない。ただ、しんどければ微熱であろうが初期の風邪だろうが、皆勤賞など気にせず休む。夏休みの宿題も、やれるところまで。これは小学校のころから一貫していた。「マイペース」と、一年のときの担任には評された。
    高校に進学、という段階になって、体育と数学の成績が足を引っぱって、公立は厳しいので、と、私立のいわゆる名門と言われる学校をすすめられた。当時は私立の受験では、あまり内申点は問題にならなかったのだ。貧乏な我が家だったが、母は「その学校なら」と受験を承諾した。わたしはたぶん数学で落ちるから、そうなったら適当な公立を受けようとお気楽に思っていたが、なぜか合格した。
    これは、わたしには幸いだった。なにせ第二次ベビーブームの中生まれたこどもで、おなじ学年に女子が九百人あまり。当然先生も細かいところは見ていない。地味なわたしには楽な環境だった。それだけ人数もいると変わり者も何人かは当然いる。おかげで仲のいい友達もできた。いい学生生活だったと思う。体育や美術、家庭科などはあいかわらず悲惨だったが、基本的には楽しく通った。
    そのまま、付属の大学に進学。学んだことはなにひとつ身につかなかった。とにかく、社会に出る猶予が欲しかった。作家を夢見ていた、というのもあった。在学中にデビューできたら就職しなくてすむ、という甘い夢。もっとも、まともな作品はさっぱり書けなかった。そして、就職することになる。

    就職。お化粧の仕方もわからないし興味がない。いま思えば、感覚過敏であれこれ塗るのがいやだった、というのもある。運転免許以外、特に資格も特技もない(当時は英検などは強制ではなかった)。そんなわたしでも、売り手市場と言われた当時の就職戦線で、親のコネで就職できた。
    しかし、入ると苦戦の連続。嫌いな電話応対が主な仕事。顧客には何かと怒鳴られる(これは発達障害には耐えがたいものがある)。お茶くみが遅れると、先輩に「気がきかない」と怒られる。さらに、事情があって、親と離ればなれで神戸に住むことになり、通勤一時間半以上。行き帰りのラッシュでクタクタ。ごはんは外食や買ったものですんでも、洗濯をしないと着ていく服がない。そして圧倒的に睡眠時間が足りない。とにかく辞めたかった。が、コネとなると三年は勤めないと、というのが常識だった。家でひとり泣きながら、働いた。
    嫌な仕事も慣れればなんとかこなせるようになり、とりあえずまじめがとりえだったのと、比較的有給が取りやすい会社だったことが幸いして、上司の受けがよくなり、やがてそこそこ働きやすくなった。苦手だった先輩が退職したのもある。ただ、ケアレスミスは直らなかったのと、机の上はきれいな方とは言えなかった。そして、家の掃除はほとんどできないまま、好きな本がたまっていった。
   
    やがて、月日は流れ、三十路手前、ずっといても待遇のほとんど変わらない会社にも不満を感じ始め、机に書類がガンガンたまり、世間の景気も目に見えて傾いてきた、そんなころ。
    わたしの誕生日目前の二月、母が突然死した。心室細動。
    そろそろ仕事を辞めて一緒に暮らそう、なんていう話が出始めた矢先だった。「ずっとほったらかしにしててごめんね。これからはめんどう見るから」と、何度か言っていた。いまさら遅い、と反発を感じていたが、ついにそのときは来なかった。
    突然死のショックは大きかった。さらに間の悪いことに、当時真剣に付き合っていた相手に、そのタイミングで浮気された。これはかなり痛かった。あるとき、ホームに入ってくる電車を見て、「これに飛び込んだら楽になれる」と、発作的に思った。それが、始まりだった。
     春になって暖かくなっても、寒い。怖くて、混んだバスに乗れない。何かがおかしい、と家から少し離れたクリニックに飛び込んだのは五月。不安神経症と診断された。その後、このクリニックとは長い長いお付き合いがつづく。
    とりあえず一ヶ月の休職。寒いし食欲もない。ひと夏を長袖で過ごし、びっくりするくらい痩せた。小太りが悩みだったことはあっても、痩せて悩んだことは初めてだった。以来、あまり太らない体質になった。
    休職が明けても、何かと休みがちになった。最初は同情してくれていた職場の空気も、みるみる悪くなっていった。さらに悪いことに九月には親会社の倒産、会社の移転、わが家からはますます遠くなった。通勤のつらさが増し、具合はよくならず、年が明けて四月に辞職した。
    そのころには、父と同居していた。兄はおなじ職場の人と結婚し、新しい生活を始めていた。わたしは、移転による通勤困難が幸いし、失業手当を早期に受け取り、退職金とそれでやりくりしていた。貯金はなかった。発達障害にありがちな浪費癖は昔からで、これはいまも直っていない。
    そのうち資金が底をつき始め、職業訓練校に通い、年齢と経済事情を考えて派遣会社に登録した。家から前ほど遠くない働き先が見つかり、営業事務として働き始めた……が、スピードについていけない、体調は完全ではなく、前の会社と違って高熱でも出勤が褒められるような社風で休むこともあり、ついに上司を怒らせた。契約を切られ、それがショックでひきこもった。このあたりから、部屋が本格的にゴミ屋敷状態になってゆく。小学校の机の中を、思い出す。なにも変われない自分に失望。

    半年ほど月日は流れたか、とるものもとりあえず、コンビニの夕勤に入ることにした。このころはいまほどめんどうな業務もなく、おでんもやっていないような店舗で、わたしには楽だった。経済的には苦戦がつづき、あちこちから借金をして、当時の友人とはほとんどつきあいがなくなった。金の切れ目が縁の切れ目。
    やがて、夕勤だけではやっていけないと決心し、日雇い派遣に目をつけた。好きなときに働けるしすぐ手当がもらえるし、という甘い考えだったが、実際は仕事がないときもあるし、キツい肉体労働も多いし、交通費が出ない会社だったので、お金をもらっても、生活費を出したらほとんど残らなかった。ただ、気楽ではあった。そして、やっぱりどんなにまじめに取り組んでも、ケアレスミスは直らなかった。流れ作業の類はついていけないので、基本的に断っていた。
     会社員として働いていたころは天引きだった厚生年金が国民保険に変わっていたが、手続きもろもろすべて父任せだった。兄がかなり厳しく言ってきて、父はシルバーセンター経由で働くかたわら、年金も負担してくれていた。これがのちにわたしを救うことになる。

   このまま、こんな生活がつづくのだろうか……と、思い始めた矢先。
    東日本大震災が起こった。
    阪神大震災を思い出し、津波におびえ、不安発作が起きて、行ったり行かなかったりしていたいつものクリニックで薬をもらう。数日間、「ここは坂の上だから、津波は来ない」と自分に言い聞かせ、薬を飲んでなんとか眠った。
    そんなとき、派遣会社から連絡があった。福島で業務を続けられなくなった会社が、急遽神戸に来ることになったので、という依頼だった。
    日雇い派遣によくある、倉庫でのピッキング作業で、わたしには合っていた(やはりケアレスミスはあった)。やがてそこでの仕事が増え、正式に神戸での拠点が発足、パートを求めているということで、面接を受け、無事採用された。
    最初はよかった。忙しくてもやりがいがあったし、人間関係もうまくいっていた。が、職場の都合でパートが減るにつれ、地味でお酒もタバコもたしなまないわたしは、いじめの標的になった。あとの女性はみな派手で喫煙者でお酒好き、わたしは完全に浮いていた。そんなこともあり、仕事の疲労もたまってきた。悩んで上司に相談し、仕事の少ないときは休ませてもらうこと、など、話し合いはうまくいった。はずだった。
    その矢先、私を率先していじめていたパート仲間から、「みんなあんたに辞めてほしいと思ってる(要約)」という心ないメールが来た。
    もともと、完全に治ったわけではなく、クリニックに通うかたわら働いていたわたしのメンタルは、完全に折れた。こっそり荷物をまとめ、翌日診断書を書いてもらい、郵送。その会社へは二度と行かなかった。上司や仕事仲間にはいい人もいたので、申し訳なく思っている。

    パートの更新契約が切れ、しばらくひきこもったあと、なんとか動き出し、失業手当をもらいながらまたも職業訓練校に。が、ここで年齢的、そしてわたしの能力的には高望みだった資格に挑み、見事玉砕。自分としては相当無理をしてがんばっただけに、かなりこたえる。さらに、年下の同期のみんなには仲良くしてもらえたものの、講師だった女性に明らかに好かれてなかったショックなどが尾を引いて、ひきこもり、というよりうつ状態になってしまった。
    ひきこもりとうつ状態のなにがちがうのかというと、人によっては違わないのだろうけど、わたしの場合は、本当に動けなくなった。背中とベッドが仲良しになった。トイレには歩いて行けたけど。そして、希死念慮が強くなった。自分が何をしでかすか、当時はマンションの高い階に住んでいて、あれこれ考えたりとか。
    そこからは、とてもではないが働けない状態になり、親に頼んでクリニックになんとか通わせてもらいながら寝ては起き、ゴミ屋敷で寝ては起きのくりかえし……。
    そんな中、あるときクリニックの先生とのやりとりで飛び出す。「発達障害」という言葉。
    検査をし、そう診断される。
    いろんなことが自分の中で腑に落ちて、納得し、安心した。というのが正直なところだった。ずっと、自分の性格を心のどこかで責めていた。ケアレスミス、ゴミ屋敷、家事ができない、みんなとうまくやれない……。
    早速薬が処方され、これで終わり……かと思えば、ここで、世話焼きの兄が登場する。

    自立支援センターの紹介をされて通い出したあと、障害者手帳を取りなさい、と言われる。そして、障害者年金の話題。兄とともにクリニックの先生と三者面談。可能性は十分ある、という先生の言葉とともに手続きが動き出す。その面談で症状の説明をした先生が言った、「希死念慮がありますね」のひとことに固まった兄のことは、忘れないと、思う。
    年金といえば、これの書類を書いて申請するのが大変だった……。社労士さんや、そういう手続きを専門にしている人の手は借り(られ)なかったので自分で書いたけど、もうやりたくないレベルの難易度。わたしの場合、職歴もごちゃごちゃなので、よけい。はれて二級認定されてなかったら、ショックで完全にひきこもってたかもしれない。
    しかし、それもこれも、気を配ってくれていた兄と、年金を肩代わりしてくれていた父のおかげだ。感謝してもしきれない。ふだん、なかなか言えないけれど……。

    そして、ゴミ屋敷問題と、父のローン問題(神戸の家は一応持ち家だった)を解消するために引っ越すことに。一気に生活が変わることになる。
    最近は、ゴミ屋敷状態のまま買い取ってくれる不動産屋さんもあるとは知らなかった。いろいろ、否応なしに手放したのは、いまでもすこし、つらい。しかし、ほとんど自業自得。あと、借りパクしたものを識別できなかったので、いよいよ当時の友人とは断絶だな。

    引っ越し先のわたしの部屋は狭くて(居候なので当たり前だけど)、またしても、本や、洗濯していない服(すみません)などで埋まってしまった。これが目下の課題……。 
    本当は、もう少し外へ出て、こもらない、本を買い込みすぎない生活をするはずが。
     コロナ。
     これのおかげでまたひきこもりに逆戻り。というか、生活する場所が変わっただけで、病状はそんなによくはなっていなかったのもあるけれど……。
    世間ではなんとなくないことにしようとしてる気配もあるコロナだけど、そう簡単に切り替えられない人間もいる。すっかりひきこもりとマスクになじんでしまって、さあどうしよう。たまに行くライブで声出しできるようになったのはうれしいけど。あ、発達障害の方で、ライブに行けないという方もおられますので(聴覚過敏など。わたしもテレビの音は小さいし、ライブもたまにしんどい)、あまり無理に誘わないように、おねがいします。

    それでも。
    いいこともあって。
    うつ症状のほんとにひどいときには読めなかった本が、だんだん読めるようになってきたり。
    こうやって、すこし長い文章を書けるようになってきたり。最近は短歌も始めたり。
    少しずつ、世界が広がっている。ほんと、ミリ単位で。
    最近は発達障害の本や記事もめずらしくないけど。わたしのこれも、その流れにのったようなものだけど。
   やっぱり、まだまだ知ってほしいので、書いた。自分の、リハビリのためにも。自分の、あしたのためにも。
    ひとまず、すっきりしたので、まずは部屋の片づけと、昼型生活への転換、かな……。
    道は、遠い。


    


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