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文学なる舟の“舳先”

世の中に数多犇めく文士らは、全体どこに向かっていくのだろうと思う。その外で雨が降る。

 こう書いておきながら、主題を転覆させるという真似をどうぞ御寛恕いただきたいのだが、心底どうにでもすればよかろうと思っている。敷衍すれば文壇の事情などには興味がないのだ。児戯に類する警句をわめき、およそ不適当な価値評価が書かれた粘着物が輝く紙の束で、日本円を奪取せんとする人種のことなど。

固陋で唾棄すべき判断軸によって測距されてしまうがために、なけなしの文学を二束三文で売らざるを得ず、あまつさえ「口から手へ」の生活者たることを余儀なくされている人々よ。
もし本気で文学に活気を取り戻さんとする活力を一縷にも持ち得るならば、わたしは二つの選択肢を提示するだろう。
一つは「既存文壇から脱出し、よその土地で新たな世界を築く」ものである。
もう一つは「既存文壇の徹底的な否定と破壊による再構築」である。だが実のところ、わたしにはかようなシナリオによって、文学はパラダイムシフトを迎えるであろうと考えている。
すなわち、文学は最早売れず、出版社も文学執筆専門の作家先生を見捨てる。その結果として職業作家は「憤懣やるかたなし」と気勢を上げるものの、しかし矛先は「読者」「政治」「企業(しかし出版社などに向くことはない)」に向けた嘆かわしい責任転嫁であり、夜を日に継ぐほど勤しんだ末に、アテにしていた読者からの仕送りを失って困窮する。
要するに「党利党略による裏切り合い」と「自縄自縛による自滅」が見事に婚姻して破滅するであろう、というのがわたしの考えである。

文学が、文壇やその生活が朽ち果てたとて、わたしの知ったことではないが。
                                収穫 


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