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映画「余命10年」を見て思い出したこと

4.5年前に、小説を読んだ時、その最後の章を読んだ時。
ここに作者の彼女は全てを込めたのではないかと思いました。そして、最後の2行。これが彼女がたどりついた答えだったのではと。この写真が、私にとってはその場面と重なります。

小坂 流加さんの小説「余命10年」。
私は、確か2017年頃に読んでいます。
最初、本屋さんでこのタイトルを見たときは、「トクン」と心臓が痛んだ気がして、心臓が拒否しているような気がして、手に取りませんでした。

でも・・・・やっぱり何かに吸い寄せられるかのように、ほどなく手にとることに。
読み始めると、彼女の紡ぐ言葉の中に、おそらく同じような世界を見たことがある人なら、同じ世界に引きづりこまれたことのある人なら、それが、彼女のリアルな体験が混ざっている言葉なのではと、これは経験した人しか紡げない言葉ではないかと。その中にいる人なら、いたことのある人なら、かぎわけられるような描写、心情の匂いがしました。

かすかな表現の中にも、「ああ・・・」と思うというか。そして、本当にその景色を見たことがある人だから紡げる言葉だと思いました。
ご家族の描写も、多分、実際に経験した人しかあんな書き方はできない。

だから・・・・・ぐんぐん引き込まれていきました。
「トクン」と心臓が拒絶した時は、おそらく、「でも、違うんだよなあ、本当は」と思ったりする内容があるのかもしれないなという想いが潜在意識にあったのかもしれない。だから、とっさに心臓が拒否したのかもしれない。

でも・・・読み始めると、一度拒否した心臓が、大丈夫だと安心して寄り添うように一気に読んでいた気がします。確か1日で読んだ気がします。

実は、もう数年、この小説は読んでいなくて。
だから、心に強烈にインプットされているものしか今すぐには引き出せないのですが。

その小説を読んだ夜、自分の日記に「流加さんのように、自分に起こっていることを、文章にできる人にいつかなりたい。」そんなことを書いた記憶があります。

月日はそれから随分と流れて・・・・・

昨年だったでしょうか。確か、主人が亡くなったタイミングぐらいで、映画化されたことを知りました。

私にとっては、このタイミングというのも何か意味があるのかもしれないと思いながらも、内容が小説とはずいぶんと違うということを何かで読んで・・・・
見に行かずに今日になっていました。
私にはあまりにも、小説の方が、特別で大切なお話だったから。
それでいいと思った。


それでも、昨日かな・・・・ふと、本当にふと、なぜか、見て見ようかなと思って。そう、一度拒否したはずなのに、なぜか小説を本屋さんで、手にとった時のように。

そして、さきほど映画を見終わりました。

やはり、小説とは本当に・・・・・・・・・・・・・・いろんな設定も違っていて。 私が一番彼女が言いたかったのではと思う、大切な場面もないし、それに続く小学校も出てきません。私が嗚咽するほどだった最後の章のお話も綺麗にありません。

それでも、この映画に出てくる小松奈菜さんも、坂口健太郎さんも、とてもとても大切に演じているのが伝わってきたし、なんと、私、最初の数十秒で、号泣してしまっていました。

そうそう、間が悪いことに、その数十秒めがけて、息子ちんが、ふふふーんって、ご機嫌モードで、リビングに入ってきたので・・・・・ 。もう、隠せなくって(笑)

「あ~ん、もう~、かか、10秒で泣いちゃったああ~」とおどけて見せたら、息子ちんも爆笑してくれたから良かったんですけれどね^ー^;息子も明日、見てみるそうです。

坂口健太郎さんの、最後の「頑張ったねぇ・・・」というセリフ。
なかなか、リアルな場面でも、あんな風に大切に大切に言える人って・・・・・・ 実は多くないかも。

ただ、どうして、あの小説の大切なお話の伏線を端折ったというか・・・・・映画の中で描かなかったのだろう・・・・・・という想いはあって、人って、いけないですね。ついつい「理由」や「答え」を想像してしまう。

流加さんがすでにこの世にいない中で、編集者の方や、ご家族が、この映画の内容でGoサインを出したとすれば・・・・ ひょっとして、映画のお話の方が、実際のお話に近かったのかな?・・・・・とか、勝手に思ったりしながら、最後のエンドロールを見ていました。(本当に勝手な想像なので、全く違う可能性大です!お話の中の和人さんの職業一つとっても、映画化するには、予算も結構かかってくるとか、そういう大人の事情だったのかもしれないですね。)

そしたら、RADWINPSの歌が流れてきて・・・・・・・・・歌詞を聞いていたら、もう、たまりませんでした。
胸をつかれるというのは、こういうことを言うんですね。心臓が撃ち抜かれるというか・・・・・
息も脳みそも一瞬止まってでも、体全ての細胞が、それを受け止める。

小説の最後の2行を読んだ時と、全く同じでした。
それに、パパが教えてくれたことと、一緒だった・・・。やっぱり、そこに人が行き着く、真実みたいなものがあるんだよねと思えて、ひどく嬉しかった。

さすが、RADWINPS 。

死をリアルに肌で感じたことがある人ならば・・・・
否応なく、なぜ?と思う気持ちがわいてきます。
なぜ、私は生きているのか、真綿で首を締め付けられるような状況でも生きなければならないのか、なぜ、生まれてきたのか・・・・・なぜ、若くして死ななければいけないのか。

「私が生きてる意味って何?」

そう、パパも私もそうであったように、「生きる意味」を考えるようになる。

その答えは・・・・・・過酷な中にいればいるほど、なかなか分からない。誰も、どこに行っても、教えてくれない。
自分の心の奥の奥のほんの隙間に隠れているその答え。

映画の冒頭で私が頭で考える前に泣いていたのは、
「最後まで生きてね」という言葉。

パパに、いつかの年に、「今年を漢字一文字で書くとしたら、パパは、何?」と聞いたら、間髪入れずに、「生きる」の「生」と言いました。

「ふーん、そっか。そうやね、やっぱり。じゃあ、パパにとって「生きる」とはどういうこと?」と聞く私に

パパは、「生きるとは・・・死ぬまで、生きること」と言いきりました。
その時の顔が忘れられない。

おそらく、死を覚悟した人、それを目にした家族には、この言葉が、どれだけの重みをもつものか・・・・・ その言葉の中にある深さや濃さ、悲しみ、そこに行き着いた意味に、「真実」を垣間見る。

だから・・・・・・・・・・・やっぱり、この映画も、流加さんの言葉が随所にちりばめられているんでしょうね。
だから、私の心が、こんなにも、短い言葉に息が止まるほど反応する。

エンドロールまで見る

映画、見て良かったです。
パパは、映画が本当に大好きで、ミニシアター系とかも大好きで。
私と行く映画は、大きな映画館のドッカーンとか、ハラハラドキドキとか、有名な映画が多かったけれど、まわりの人がどんどん席をたっても、パパは、エンドロールを最後まで、静かにずっと眺めている人でした。

途中で席を立つ人も多いし、私も最初は、手持無沙汰というか・・・・そんな人だったけれど、いつのまにか、パパと一緒に余韻に浸りながら、そこに流れてくる人達の名前を読むようになりました。

そして、2.3年前から、もっともっとちゃんと眺めるようになりました。
それは、パパの従兄弟君が、夢を叶えて、今映画に携わるお仕事をしているから。

パパが亡くなった日、とんぼ帰りで、パパに会うためだけに、その従兄弟君が東京から飛行機で帰ってきてくれました。

「パパが、「こはく」(井浦新さん主演で、従兄弟くんがはじめて全編1人で編集した映画です。)を、博多まで見に行った時、ものすごくご機嫌で帰ってきてね。エンドロールに、〇〇の名前がちゃんとあったっちゃー」ってめっちゃくちゃニヤニヤ嬉しそうでね」と話したら、

「僕が今あるのは、周くんがいたから・・・・たくさん映画の話を僕にしてくれたから」と、その後、号泣というよりは、嗚咽するように大きな声で泣き出してしまった従兄弟くん。大の男の人が大きな声で嗚咽する姿。私は目の前で見るのは、はじめてでした。

それからは、さらに、私はエンドロールの無数のお名前を大切に見るようになって、今日も最後まで見ていました。

たくさんの人がいろんな想いで作ってくれたもの。その名前を見つけて、嬉しく思う人達がその名前を取り囲むように、たくさんいるのかもしれないこと。

パパ・・・・・・。かかも、死ぬまで生きてみるよ。その瞬間まで生きてみる。
それが、「生きる」ってことだよね。

















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