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花束を君に

今日は朝からなぜか宇多田ヒカルの「花束を君に」が、頭の中でエンドレスループしている。

わたしは幼い頃から「花」が好きだった。
いつか花束をこの腕に抱えたいと思っていた。


中学を卒業するとき、吹奏楽部の後輩たちからピンクのスイトピーが入った可愛らしい花束をもらった。
とてもとても嬉しかった。
写真の中で、涙を浮かべながらとびっきりの笑顔をしている。


そして高校生。
小説を山ほど読み、テレビドラマを観、抱えきれないほどの花束をもらうなんてことに憧れていた。


そんなわたしは、ある年「年齢分の本数のバラの花束」をもらうことになる。


その年、わたしは自堕落な冬を過ごしていた。
幸いにも早々に進学先が決まったわたしは1日中パジャマで過ごし、雪が降って寒いなどという戯けた理由で1週間外に出ないという生活を送っていた。

そして、そんな冬が過ぎ次に住む街では桜が咲いたという話を聞くころ、わたしは18歳になった。


いよいよ家を出ていくという準備をしていたある日、宅配便屋さんが何やら大きな包みを届けてくれた。


そこには生まれて初めてもらう「真っ赤な薔薇の花束」が「年齢分」入っていた。

ビックリしたとともに、家族の手前とても恥ずかしく、なんて説明しよう…と戸惑ったことを覚えている。
でも、とても嬉しかった。
花束をもらった!こんなきれいな深紅の薔薇を。

送り主はたまーに手紙をやり取りしていた年上の男性だった。
合格祝いと誕生日祝いを兼ねて贈ってくれたのだった。

当時付き合っていた彼は「俺より彼氏らしいな」と拗ねたような、してやられたようなことを言っていたことを覚えている。


そしてわたしは、その花束と少しだけ一緒に過ごした後、薔薇は実家に残し新しい土地へと旅立った。


それ以来、男性からも、友達からも、「年齢分の本数の花束」はもらったことがない。
わたしの中で唯一の経験だ。


次に大きな花束をもらうのは、結婚式の二次会だった。
タクシーに乗り切らないくらいの数の花束をもらって帰った。
新居はしばらく多くの花で溢れていた。
いろんなことがしあわせだったけれど、なんとなく現実感が伴っていなかった。

様々なことがうまくいかなくて、その人とは別れてしまったけれど、あの日タクシーから一度で降ろし切れないほどの花を抱えて家に帰って、疲れ果てていたけれど楽しかった1日を一緒に振り返ったことは、今も少しだけ思い出せる。


そして何年か経ち、わたしは新たなパートナーと出会い、子どもを産んだ。
それを知った最初に勤務した会社の先輩はオレンジの花束を贈ってくれた。
何年も会っていないのに、年賀状に書いた「子どものこと」をきっかけに贈ってくれたのだ。
見ていると元気が出るような、心がウキウキするような素敵な薔薇の花束だった。


わたしはこれから花束をもらうことはあるのだろうか。
でも誰かに花束を贈ることはきっとあると思う。
そのときのことを思い浮かべると、心が湧きたつ。
誰かに花束を贈るというのは、自分まで嬉しくなってしまうのだ。


そしてきっと、花束にそのときの想いを込めて贈るのだろう。
しあわせであるように、という気持ちを乗せて。

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