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小説「春枕」プロローグ

わたくしは、桜。

奈良県吉野に自生していた山桜。
山里の集落のはずれに咲いていた、一本桜だ。
集落の人や、吉野を訪れた人たちの心を癒やしてきた。

しかし、100年以上生きたわたくしは、そろそろこの場所を出て、もっと広い世界を見てみたかった。
もっと、たくさんの人と出会ってみたかった。
だから、この木の根っこをバッサリ断ち切らせたのだ。

山の中に林道を通すため、邪魔になった木はすべて伐採された。
それはあくまでも、表向きの話。

わたくしが、人間たちの潜在意識に働きかけたまでのこと。

晴れて自由の身になったわたくしは、とある材木屋に運ばれて、そこでひとりの女性と出会うことになる。

彼女の名を、「春花」といった。

「わたしは、この桜の木に一目惚れしたんです」

熱っぽく語るその人は、宮大工さんに頼んでわたくしを机に仕立て上げ、彼女のお店「春枕」に運び、こう言った。


「桜さん、わたしはこれからあなたとともに、この銀座のまちでお客さまをお迎えし、おもてなししたいのです。

 100年以上も生きてきたあなただからこそ、酸いも甘いも噛み締めてきたことでしょう。あなたは吉野の地で、人びとの心を癒やしてきました。このお店でも、お客さまの心を癒して下さい。そのためにどうか、わたしをあなたの手足として使って下さいな。

 お客さまの心に、永遠に散らない満開の花を咲かせて下さい。よろこびも悲しみも、暖かな春の光につつまれてふっと一息つけますように…。」

こうしてわたくしは、「春枕」の看板娘ならぬ看板机として、新たな人生を歩き出すこととなったのだった。

※この物語は、フィクションです。

春枕の桜の木の机

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