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小説「春枕」第二章〜郭公(ほととぎす)鳴くや五月のあやめ草(1)〜

初夏。

青々とした緑が広がり、生命力に溢れる季節。


わたし笹原小百合は、ここ「春枕」の常連だ。

しばらく体調を崩して入院していて、半年ぶりにお店に顔を出した。


「ここはいつ来ても落ち着くわね」

そう言ってわたしは、扇子を出してあおいだ。

まだ五月だというのに、今日は夏日を記録していて、病み上がりの身体にこたえる。


「ねえ春花さん。今日はわたしの長いおしゃべりにお付き合い下さいね。しばらく入院していたでしょう。70ですもの、わたしもいい歳でしょう。この先長くないのかしら…なんて思ったら気持ちが弱くなってしまってね、誰かに聞いて欲しくなったのよ。

 わたしはね、この歳まで独身を通した。お付き合いした人がいたかどうか?ウフフ、それはヒミツよ。でも、忘れられない人がいるの。たったの1人だけ。わたしの初恋だったの。向こうはわたしのことなんて忘れているか、捨て去ってしまいたいくらいの苦い思い出かもしれない。

 でもわたしにとっては、最初で最後の、ほんとうの恋だった。そんな恋が一生に一度できただけでも幸せなのよね。あの人は、わたしのことを真剣に好きでいてくれた。ちゃんとお付き合いしたかったのだけれど、わたしは自分の気持ちに素直になれなかったの。だから意地を張って、突っぱねてばかり。そんなわたしに愛想を尽かしたのか、あの人はわたしから去ってしまった。

 今でもね、ごめんなさいとありがとうをずっと引きずっているの。わたしもあの人のことを、本当に好きだったのに。」


初恋は叶わない。そんなことを言ったのは、いったい誰だったのだろう。実にうまいことを言ったものだ。

この歳までずっと自分一人の胸にしまっていた想い出を、わたしは春花さんに告白した。


すると、彼女は一首の和歌をつぶやいた。

郭公(ほととぎす)鳴くや五月のあやめ草あやめも知らぬ恋もするかな


それはわたしの大好きな歌だった。

「あら、その歌、とっても素敵よね。

 植物のあやめと、道理という意味の古語のあやめを掛け言葉にした歌よね。歌の意味は、ほとどきすが鳴く五月のあやめ草ではないけれど、道理も知らない恋をすることだよ。道理も知らない恋というのは、分別もつかないくらい恋に夢中ということ。

 新緑が輝く眩しい世界で咲くあやめと、まだまだ青い心で夢中で恋をする人。それはきっと若者ね。爽やかな名歌だわ。」


「さすが小百合さん、ご名答です。

 人を好きになること、それはすべてをかなぐり捨てて、無防備な丸裸の心をさらけだすことだとわたしは思うのです。だからこそ、こわい。それでもこの歌からは、そんな臆病さや弱さはみじんも感じられない。

 分別がつかなくなるほどの恋。ひたむきに愛しい人を想うことは、時に何も見えなくなること。そんな力強さや青臭さが感じられる歌だと思います。」


わたしは力なく微笑んだ。

「わたしには、勇気がなかった。とても弱かったの。そして思うのよ。大人になった今のわたしだからこそ、あの人に向き合えるんじゃないかって。もうすべて、過ぎ去ったことなのにね。

 きっとあの人は、素敵な恋愛の末に幸せな結婚をして、奥さんと子どもに惜しみない愛を注ぐ、マイホームパパになったことでしょう。真面目で純粋で熱い人。そんなところが大好きだったのよ。髪の毛から爪先までその全部が愛おしいと、うまれてはじめて感じた。

 あのとき本当は、あの人と一緒に青春を過ごしたかった。一緒に大人になって結婚したかったなって、思ったりしたわ。今でもずっと、いえ、きっと死ぬまであの人にわたしは恋し続けるのよ」

一気に言い終えてため息をついたわたしに、春花さんは言った。

(つづく)

※この物語は、フィクションです。

あやめ 

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