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天使たちとの最終戦線(一章、追憶)

「平和だな・・・。」

俺は大学受験を全落ちして軽くへこんだ後、専門学校に飛びこみで入学し、無事?卒業し、就職までの春休み期間、人生で初めて平穏な心持ちで長期休みを過ごした。

そして、初めて今までの人生を振り返った。

幼稚園の頃、俺には好きな女の子がいた。

なんせ、卒園式の時に一緒に写真を撮ってもらったほどだ。

しかし、幼稚園を卒業後は全く会うこともなく長い年月が過ぎ、最後に見たのは多分、小学校の頃に習っていたスイミングスクールでだ。

何故多分なのかというと、遠目からでしか確認できていないからだ。

それに、直接顔を合わせていない。

加えて、小学校の頃の俺は妹も生まれ、家庭内が絶賛戦乱期真っただ中ということもあり、自尊心が一番低い頃であった。

俺なんかが今更あってもどうしようもない。

会ってどうする?

こんな俺に相手の時間を割かせるのは申し訳ない。

こんな惨めな気持ちで会いたくない。

こんな惨めな自分を見られたくない。

こうした負の感情を持ち始めた頃で、俺が他人を積極的に遠ざけるようになったころだ。

だから俺は、そんな俺に関わろうとしてくる人たちがとても嫌だった。

小学校の頃から俺は誰とも仲良くならないように関わってきた。

気になる人が出来ても、まるで関心なく、しかしそれでいて完全に無視をしないように取り繕い、こちらに好意を向けてくる相手なんて絶対に居ないという思いと、好意を向けられたいという自分勝手な感情を織り交ぜにしながら過ごした。

要するにかまってちゃんである。

俺はこの感情がとても迷惑になることは分かっていた。

だから、せめて他者に伝わることだけはないよう取り繕い過ごしてきた。

しかし、この俺のギリギリの心の平穏を積極的に崩そうとしてくる輩が現れる。

それが、好きな人を聞いてくるモブである。

このモブは俺が好きな人はいないと言ったら、嘘をつくなと言った。

まぁ、このモブの指摘は世間一般から言えば何ら間違った指摘ではなかったが、この時の俺は心の中で嘘ではないと本気でそう思っていた。

理由は、俺の中の勝手な解釈と変な意地(プライド)だ。

俺はこのモブに聞かれた時、好きとまではいかなくても、気になる人はいた。

普通に考えれば、これは好きな人に分類されるが俺の中ではそうではなかった。

当時の俺の中の好きな人というのは、一緒にいて嫌な気持ちにならない人だったからだ。

しかし、俺の気になる人は当の本人こそ嫌な所が無かったが、その取り巻きが嫌だった。

あと、当の本人は取り立てて性格的な魅力が無かった。

要するに空気だった。

顔が整っていたから少し魅力的に感じていたが、それだけだった。

小学校の頃の俺はこの違和感の正体が分からなかったが大人の俺ならよく分かる。

性欲だ。

ただ単に顔が整っていて遺伝子的に魅力的に見えただけであった。

俺は、好きな人とはこの魅力にプラスして性格的な魅力が必要だと子供ながらに感じていた。

現に俺は気になる人が出来る度に、好きなのかどうか疑ったが、大体2週間もすれば底が知れるかのように何の魅力も感じなくなり、視界に入らなくなっていった。

しかし、俺の中では終わっても周囲の認識はその速度よりとても遅い。

その為、しきりにモブは俺に対して好きな人を聞いてくる。

俺は、そのうざったい行為に終止符を打つ為に普通に気になっていた人の名前をそのモブに伝えてみた。

そうすると、そのモブは嬉々としてこちらを茶化しながら色々と言ってきた。

さぁ、これでどうなる。

俺は単純な好奇心でもうとっくに熱の冷めた、気になっていた人の名前を出した。

そうしたところ、そのモブは次から俺のことをその気になっていた人の名前で呼び始めた。

俺はこの行為に殺意を覚えたのを覚えている。

ありえないほど低俗な茶化しをするな。

俺にも迷惑だし、その気になっていた人にも迷惑だ。

まぁ、この責任は名前を出した俺にあるのだが。

いきなり、知らない男が好きだと言っているという事実が耳に入る相手の身にもなれ。

この感情は子供の頃の俺なら例えようがなかったが、大人になった俺ならなんとか比喩できる。

この感情は宛ら、無能な部下が会社内で自分だけに迷惑をかけるならいざ知らず、取引先の関係ない方々に飛び火させるのは流石にやめろ。謝れ。だ。

この時、俺は自分への戒めとして、この気になっていた人の名前は一生忘れないでおこうと誓った。

理由は、今回の被害に対して何時か責任を果たす為だ。

この人がいつか助けてほしい状況になったら、一回か二回くらいはばれないように助けて、今回の件を自分の中で帳消しにしようと勝手に考えていたのだ。

同時に、俺は周囲のモブたちにいよいよ宣戦布告並みの殺意を抱くことを隠しきれなくなっていた。

小学校の頃の俺はただ殺意を抱くことしかしなかったが、もし今の俺が異世界転生もののように、今の知識と経験を持ったまま、この時代に戻ったらまず、茶化してきたモブに机をぶん投げて、机ごと教壇の方に飛ばす。

そして、投げ飛ばした机と教壇の板挟みになっているモブに向かって全力で走りだし、俺が投げた机を思いっきり蹴り飛ばすことでとどめを刺すだろう。

小学生がどうやって机を投げるんだという疑問があるだろうが、それは遠心力を使えばいい。

机の脚を持って、コマのように回り、ただモブがいる方向に手を放すだけで机は飛んで行ってくれる。

俺はこんな妄想をするほどに、大人になった今でも思い出すだけで殺意がこもった。

しかし、俺のこの思いとは裏腹に、周囲のモブたちは俺とこの人を放ってはおかなかった。

俺は小学校の頃、塾に通っていた。

そして、気になっていた人も塾(この塾は俺の塾とはまた別の塾である)に通っていた。

その塾は隣同士だった。

俺の塾には学校のモブも何人かいて、当時の俺は何処に行っても何となくストレスだった。

そしてある日、俺はモブに茶化される以上の殺意を覚える日がやってくる。

それは塾が終わり、いつものように一人で帰りたいが嫌煙すると学校でめんどくさいことになるので、仕方なく、必要経費としてモブと帰ろうとした時、そのモブが、隣の塾が終わるまで待とうと言い出した。

俺はこの時、それはお前ひとりで待てよと思ったが我慢し、必要経費?を追加で支払った。

そして、隣の塾が終わり、俺の気になっていた人が出てきたとき、俺のストレスはマックスに達していた。

学校で何事もなく過ごす為に、帰りたくもないモブと楽しくもない時間を割き、それに加えて俺の中で終わった事柄にここまで時間を割かなければならない。

俺は不機嫌の絶頂だった。

しかし、だからといってこれらを説明し納得してもらうには今以上のコストもとい経費が掛かる。

俺はこの時、もうどうでもいいと思ったのを覚えている。

恐らく、モブたちは俺が好きな人に告白できない臆病な男ということで、だったらその機会を作ってあげようという事なのだろうが、俺からすれば、終わった課題をまた一からなぞるかのような、もう何をしているのか分からない状況で、頭の中がショートしていた。

その為、俺はとりあえずこの場だけでも乗り切れれば後は知らんといった感じで、不機嫌な感情を隠すわけでもなく、モブにその人の相手を任せ、俺はただ一人、前を歩いて帰った。

帰っている途中、時々話を振られるが、俺は最低限の相槌(最低限の人としての配慮)だけして、絶対に話を広げようとしなかった。

申し訳ないが、ここでこの人には俺がどう思っているか思い知ってもらおう。

そう考えて俺は最大の拒絶を態度で示した。

今までの状況は私のことを好きという噂があるけど、本当は好きなのか嫌いなのかどっちなのかな?といった曖昧な状況であっただろうが、今この時に、あれ?これ本当に好きなの?と思ってもらおうと思った。

それに、こいつ全然話さねぇし、態度悪!とでも思ってもらえば儲けものだ。

嫌え、嫌ってくれ。

俺は切に願いながら、徐々に会話の輪から精神的にも物理的にも遠ざかっていった。

そして、しばらく歩いた後、モブとの分かれ道に着いた。

ここで俺は、凄まじい圧迫感を覚えた。

理由はこの人の帰路だ。

俺はストレスの絶頂で考えることを放棄していたが、そういえばこの人の帰路を知らない。

もしこの人がモブと同じ帰路なら何も問題はないが、俺と同じ方角なら?

やばい。俺としたことが今後の可能性を思考し、対策を考えることを怠っていた。

俺がここ一番に緊張していると、なんと帰るはずのモブが助け舟を出してくれた。

「この人と少し話がある。」と。

俺はこの返答に、内心激しい喜びを感じた。

そして、それを感じながらも顔には出さないようにして、少し動揺している風を装い

「そ、そう?」と言い、その場を離れた。

俺は、先ほどまでの緊張が取れたのか体からどっと汗が吹き出し、体が重くなり、内臓がジンジンと痛むのが分かった。

「助かった・・・。」

この時俺はあの人もモブと同じ帰路なんだと思い、何の疑問も持たずに歩いたが、少し歩いた後、ふと後ろを振り返ると、何やら先ほど別れた場所でまだ何か話をしているようだったので、なんで帰ってないんだろう?と思いながらも、もう俺には関係ないと思うことにして、そのままスタスタと家へと帰った。

後から分かったことなのだが、あの人の家の方向はあちらではなかった。

俺は俺に関わってくる人物の家は大抵把握している。

あの騒動の後、あの別れた場所を中心として、家を探したが、あの人の家らしき場所はなかった。

なので、俺が探しきれなかっただけで多分あのあたりにあるのだろう、という情報が俺の頭の中にあったが、何とそこを避けて行動している時に、まったく違う場所から出てくるその人が偶然視界に入ったのだ。

俺は激しく動揺しながらもすぐに身を隠し、その位置関係を頭で思い浮かべた。

そうしたところ、あの人が出てきた場所と俺の家の場所、モブとの分かれ道を塾を起点とし線でつなぐと、どう考えても俺と一緒に帰る方が帰路としては自然だった。

その時俺は、じゃあ何故あの時あの人は一緒に帰らなかったんだ?と思ったが、即座に、そういえば少し話があると言っていたことを思い出した。

しかし、その話とはなんだ?

あの夜は恐らく俺とその人を近づける為に仕組んだ状況。

しかし、それがまったくと言っていいほど叶わないことで何か問題が生じた。

その為の話?

それならば、帰路が同じであるにも関わらずモブと話したのも納得がいく。

この俺の推論が正しいとすると、また新たな問題が出てくる。

一つ。あの夜以降、仕組まれた状況は起きていないが今後さらに何か仕組まれることはあるのか?

二つ。この一つ目を予想するのに必要な情報をあの夜に取っていなかったこと。

あの夜俺は珍しく、漫画のような“あばばばば状態”になっていて、その時の空気感だったり、あの人の雰囲気や思考の癖を何一つ読み取っていなかった。

その為、対策を打ちたくても、情報不足で対策の打ちようがない。

「・・・はぁ、あの二人付き合っちゃえばいいのに。」

俺はこの問題山積みな状況に、ありえたら良いなという願望を抱いていた。

モブとその人が付き合ってしまえば、まずモブの行動は制限出来る。

女子と付き合うということは小学生にとっては文化祭、体育祭に並ぶ一大イベントだ。

その一大イベントを受け入れるだけの意識量をモブはその人に割くことになる。

割く意識の量が多ければ多いほど、俺に向けられる意識は減る。

加えて、周囲は好きな人を取られた哀れな男という目で俺を見てくれる。

注目を集めるのは嫌なんじゃないのか?という反論があるだろうが、この注目は俺にとってかなり便利だ。

何故なら、普通、可哀そうな奴は放っておくからだ。

注目は集めているけど、近づく者は居ない。

この絶妙なバランスが、誰にも近づいてほしくない俺にとっては一番欲しい状況だった。

決まったものに人は関心を抱かない。

状況が確定している事柄に人は新たに何かを求めたりしない。

毎日朝歯を磨き、顔を洗い、ご飯を食べるという行為を疑いなくするのと同じように。

長年、人の顔色を窺い生きてきた俺は、こうした人間の習性に少し詳しかった。

まぁ、実際はこの後何もなく新たな災難が降りかかるだけなのだが。

こうして、気になる人騒動を終えた俺はその後、未曾有の大震災を経験する。

これは俺というより、この時代に生きていた人々全員が経験したのだが。

俺はこの時中学生だった。

そして、部活を始める途中だった。

2011年3月11日。

午後の授業も終わり、部活を始めようと校舎の中を移動していた時、それは起きた。

地震が起きた時、俺は昇降口を開けようと、学校の中央の扉から端の昇降口に移動していた。

最初は結構大きいな程度の揺れが、次第に視界が揺れ、視点が定まらない程の揺れに変わった。

俺はその時中央の扉と端の扉どちらも同じ距離の校舎のど真ん中に居た。

俺は、この揺れはシャレにならないと踏んで即座に入って来た中央の扉に引き返した。

理由は二つ。

一つは単純に建物が崩れる前に建物から出る為。

そして二つ目がその建物から出る際に履く靴。

足を怪我すればその後の行動範囲もとい速度に大きな影響が出る。

中央の扉に戻っている最中に防火扉が目の前に迫って来て、やっぱただ事じゃないんだなと思いながら、その防火扉を避け、中央の扉に戻った。

そして、中央の扉から出て校舎から離れる際、部活仲間が荷物はどうするか聞いてきたが、俺はその質問をすること自体がおかしいと思った。

お前は荷物と自分の命を同じ天秤に乗せるのか?と思ったが何とかそれを言うのを堪え、置いていけとだけ言って、共に校舎を離れた。

この時、漫画で平和ボケが。と言う人物の気持ちがよく分かった。

何故かは分からないが、こういうことを聞いてくる人は、俺とは根本的に何かが違うんだろうと思った。

そして、俺とそれ以外の学校の中にいた人は全員、地震の影響が少ないであろう、建物から離れた校庭の真ん中へと集まった。

校庭に集められた人の中には地震の恐怖で泣いている人もいた。

俺はその時、これで泣いていたら、うちの毒親家庭では命がいくつあっても足りないぞ?と思いとても驚いたが、即座に、人と自分の状況を比べるのは良くないし、考え方感じ方は人それぞれだと考え、目の前の状況に集中した。

周囲を見渡し、慌てふためく教師陣。

俺はこの時直感的に嫌な予感がした。

それは何故かというと、今後の展開だ。

恐らく、この大混乱の中、部活はまず中止されるだろう。

部活が中止されるということは?

残された選択肢は帰宅だ。

しかし、この状況、ただで返すわけにはいかない。

こんな状況が碌に分かっていない中、危険な中、いつものように生徒を個別で帰らせるわけがない。

ということは?

生徒をある程度の集団にして、その集団に各教師がつくことで安全に帰らせる。

この時俺は最悪だと思った。

今思えば俺の価値観は世間の感覚ととても離れていると分かる。

俺は普通の人が出来ないことが出来るし普通の人がとても驚く事象に驚かないが、普通の人が考えないことを考えるし、普通の人が当たり前に出来ることが出来ない。

普通なら、大震災とは不安になる以外にないと思うが、俺はこの大震災の不安より、集団で帰らなければいけないというめんどくささが思考の重きに置かれるほど感覚がずれている。

簡単に言えば天秤が壊れている。

普通は大震災の危険度と集団で帰ることのめんどくささどちらかを取れと言われれば迷うことなどないと思うのだが、俺はこの未曾有の大震災を前にしても集団で帰るのが嫌だと思うほどに天秤が壊れていた。

今ならよく分かるが俺は人としての情が極端に薄いのだろう。

だから、自分の為に勘違いとはいえ気になる人との近づく機会を作ってくれたモブに対して心の中で悪態をつくし、自分ではどうしようもない状況とはいえそれに折り合いをつけることが出来ない人の感情をいとも簡単に無視できるのだ。

世界の終わりかのような状況で生き抜くのにこれはかなり有用な点だが、一個人として、共に生きていく人々にはかなり理解しがたい点にうつるだろう。

恐らく、こうした感覚は幾度となく何をどうやっても改善が見込めない。

あとは如何に被害を最小限にとどめるかといった状況を経験した者にしか分からないだろう。

俺は毒親家庭の中でそうした状況を幾度となく経験した。

大人になった今でこそ、かなり貴重な経験で、生きる上でかなり有利な経験だと何とか頭で納得できたが、それでも経験しなくていいならしたくなかったと思っている。

大の大人に足蹴りにされ、正面から戦っても襤褸雑巾にされるのは目に見えている。

正攻法では絶対に勝てない。

何をどうやっても好転することは望めない状況。

それがいつ終わるのかも分からない。

抑々終わるのかも分からない。

生きている間に終わるのか、終わらないまま死ぬか、終わったとしても、そこから先は取り返しがつくのか。

あらゆる絶望を抱きながら小学校中学校時代を過ごした俺にとってこの大震災は、そんな絶望の一つに過ぎなかった。

その為、俺は他の同年代よりはこの大震災を冷静に見ていた。

そして、その冷静さ(冷酷とでもいうのだろうか)で恐らくこの先の展開は教師を伴っての集団下校だろうなと思い

「集団下校かなぁ・・・。」とつぶやいてしまった。

そうつぶやいたところ、一人の女子生徒が

「え、集団下校なの?」と反応してきた為、多分と言って返したと思う。(正確にはなんて返したかは覚えていない。)

そして、暫くして教師陣から出された生徒への指示がドンピシャで集団下校だった。

教師陣が集団下校と言ったことで先ほど集団下校かどうか聞いてきた女子生徒は目を輝かせながら

「凄いじゃん!当たったね!」と言ってきた。

俺はその時苦笑いでそうだねと返した。

俺はこの時少し最悪だと思ったのを覚えている。

理由はみんなが不安の中、俺だけがまるでこれの何が不安なの?こんなの1+1は?って聞かれて2って答えるのと同じくらい簡単な状況でしょ?みたいな空気感を態度で大々的に示してしまったと思ったからだ。

そう。震災で泣いている人もいる中、これからどうなるのかという不安で多くの人が押しつぶされている中、俺だけが何故か今後の展開を冷静に分析し、しかもそれが当たっている。

これが外れていれば、非常時にもかかわらず、変な有能感を出そうとして失敗したただのイキり野郎で流されるのだが、ここで当たってしまうあたり我ながら運が悪い。

せめて心の中で思っているだけだったら、非常時大好き不謹慎中二病野郎で済んだだろう。

つぶやいて言葉にしてしまったのが運の尽きだ。

ということで俺は、周囲を一切見ないようにしながら集団下校をするまでの時間を乗り切ったのだ。

少し話が変わるが、俺の家は機能不全家族だ。

言い方を変えると俺はアダルトチルドレンだ。

AC。

種類は俺が高校生の頃に調べられた中では9種類。

この9種類。俺は全てに思い当たる節があった。

一つ目。ヒーロー。

これは別名小さな保護者と呼ばれ、例えるなら家族間のいざこざを治める役割や、だらしない親の代わりに一家の方針を決めてきたような子供がこれに当たる。

俺は小学校二年生の頃に妹が生まれてから、両親の喧嘩をなるべく見せたくなくて、両親が喧嘩するたびに間に入って止めようとしてきた過去があるし、そのたびに怒鳴られたりした。

それに高校生の頃には毒父と力関係が逆転し、妹の健全な成長の為に一家の在り方を常に考え続けてきた。

そのお陰か、妹は高校生になる頃には俺より10も高い偏差値の高校に入ることが出来た。

この時は子供の成長を喜ぶ親の気持ちが何となく分かったような気がした。

二つ目。スケープゴート。

これは家庭内で何か不満があった時のサンドバックのような役割だ。

俺は小学校、中学校の頃は両親の喧嘩をいつも寿命をすり減らすような心持ちで止めていた。

次第に、感情は鈍化していき、終いには、何かあればすぐに死んでもいいやと思っていた。

全身が常に重く、泣き過ぎて頭が痛い。

そして毎日、毒母が毒父に当たれない分の怒りを俺が引き受けることで、家庭の安寧を保っていた。

最初は何故怒られているのか分からななった為、反論していたが、反論すると更に怒りは激しくなり、足蹴りにされる為、最後にはただただ悪くないのに謝るという行為を繰り返す。

俺はこれを小学校6年間続けてきた。

中学校になってからは足こそ出なくなったが、怒りは相変わらずであった。

この時の俺は自分は人間じゃないんだと思う事にして心の均衡を保っていた。

三つ目。ピエロ。

これは簡単に表すと、異常に愛想が良い子供だ。

理不尽なことで怒られているにもかかわらず、絶対に怒らない大人を想像してもらえると分かり易い。

それの子供版だ。

反論が通じないと分かった俺は今度、怒られるたびに泣くことを何とか我慢し、必死に平静を装ったのだ。

理由は単純。

怒られて泣くと、さらに毒母の怒りが増すからだ。

毒母は恐らくだが、自分の怒っている対象が泣いていることで、まるで自分がすごく悪いことをしているかのような気分になり、それがお前は悪いと言われているようで、更にイラつくといった悪循環に陥っていたのだと思う。

悪いことをしているのはお前なのに。

それを注意しているだけなのに。

何でこっちが悪者扱いされなければならないんだ。

悪いのはお前だろ。

悪いことをしたのを注意している私をこれ以上イラつかせるな。

といった雰囲気で、一気に怒りが増していた。

四つ目。ロストワン。

これは手のかからない子供を想像してもらえると分かり易い。

自分なんてこの世に存在してはいけないんだと思うようなタイプ。

世界から、存在価値なんてないんだからさっさと死ねよと言われている気がするのがこのタイプだ。

この頃の俺は毒母と毒父によって完全に戦意を失っていて、もう抗うことを止めていた時期だ。

思考することを完全に放棄していた時期ともいえよう。

心は完全に折られ、この世のすべてが無意味に感じられていた時期で、何をやっても最終的には死ぬんだから、何をしてもしょうがないと思っていた。

加えて、毎日食事をすることに罪悪感を覚えていた。

こんな何の役にも立たない奴が、食べ物を食べるなんて、なんてもったいないんだろうと本気で思っていた。

この食事することへの罪悪感は大人になってからも暫く残る程に強烈だった。

食事をとりながら泣いたのはこの頃だ。

ご飯を頬張っている時に、こんな無能な自分がこんな恵まれたものを食べているなんて、なんて惨めなんだろうと、精神的に大分混濁していた。

食べるなんてもったいないという感情と、でも食べないとまた殺されかけるといった感情でごちゃ混ぜになりながらも、無理やりご飯をかき込んだ。

五つ目。ケアテイカー。

これは誰かを助けようとすることで、自分の存在意義を感じようとするタイプだ。

救世主妄想。メサイアコンプレックス。

こうした言い方の方が分かり易いか。

人を助けている自分を見るのが心地良いタイプ。

俺は、自信の存在価値を何とか見出そうとして、ここに落ち着いた時期があった。

先の大震災を冷静に見ていた時期がここだ。

世界の危機のような状況を、テレビやニュースで見る度に、自分だったらどうするか妄想し、不謹慎にも自分の存在価値を感じる為の道具として使っていた。

圧倒的な存在にあこがれ始めたのもここがきっかけかもしれない。

世界の誰も敵わない存在。

みんなを助けられる存在価値のある自分。

人を助けているという優越感。

これを妄想によって勝手に感じることで、何とか心の平穏を保っていた。

六つ目。プラケーター。

これは家庭内の愚痴聞き役。

俺は高校生の頃の最初、毒父と対話をすることでこの解決不可能ともいえる問題を解決しようとしたのだ。

何も最初から完全敵対しようとしていたわけではなく、聡明に対話を重ねればいつか家族全員で笑って過ごせると思っていた。

しかし、毒父が子供の財産を使って当然と思っていることや、悪いと思っていながらも謝罪をする意思がないことが分かった途端、和解の道は途絶えた。

毒母とはこの対話によって、一定の理解を示せるほど関係性は回復した。

毒父は子供の財産(お年玉)は元々お前の金じゃないだろとのことで、納得は出来なかったが確かにそうだと思った。

何故ならお年玉は祖母から譲り受けたものだからだ。

これを母に話したところ、お前の物でもないだろ。そもそもあれは子供の入學祝いとか教科書代とかでお金がかかる時に使おうと思っていたのに・・・と、親としてまっとうな思考が垣間見える返答が返ってきて、これは毒父はきっと普通の人と何か根本的に違っていると高校生ながらに感じたのを覚えている。

加えて、転職の際に俺のお年玉、妹のお年玉、母の貯金を使い果たしていることからも、謝罪はどう考えても必要だろう。寧ろ返せと思ったが、ここに関してもやはり普通じゃないと思った。

ここから俺の普通じゃ対処出来ない問題への対処は日常化していく。

俺が人格術に最大限の理想を詰め込んだのもこれが理由だ。

普通への対処なんて価値が無い。

非常時に使えてこその技術だろう。

最悪な時にこそ力を発揮しないでいつ発揮する。

人格術はこうした普通じゃない奴らを相手にする為に作った対抗手段なのだ。

普通じゃ対処出来ない問題に対処する普通じゃない奴ら。

それが人格術。

七つ目。イネイブラー。

これは支え役だ。

兄弟の親代わり、父親の妻代わりといった支え役。

恐らく俺は妹の父親代わりで母の夫代わりを務めてきた。

妹にはいざという時はお金の心配をしなくていいように、俺の貯金したお金で度々学費を補填し、母には特別催告状が督促状に変わる前に税金免除の申請を行わせたりと、常に抜け目のないよう、隙の無いよう立ち回って来た。

もう大人になった俺よりも、子供の妹の方がまだ未来がある。

今の世界に未来が無いとしても、今を生きる大人である俺が未来を示さなければと、謎の使命感があった。

この使命感は宛ら、戦場の指揮官だ。

この戦、絶対に負ける気はない。

この軍勢、崩せるものなら崩してみろといったような心持ちで専門学校時代は過ごしていた。

この使命感は俺の人生をかなり豊かにしてくれた。

この使命感は人格たちとの絆だ。

他者とのつながりでこれ以上に強いものは俺の中にはない。

八つ目。ロンリー。

これは自分の殻に閉じこもり、他者を寄せ付けないタイプだ。

俺は高校生の頃、この傾向が強かった。

まぁ、この傾向は小学校の頃から少しではあるがあった。

俺は小学校の頃から警戒心が異常だった。

まず、自分に対して興味を持ってくる人の家は大抵調べつくしていた。

どうやって調べていたかというと、視認できないほど遠くから後をつけ、家を特定するという、普通に色々アウトな方法だ。

俺の警戒範囲の少し小さい範囲が大体の同年代の警戒範囲だったので、この方法で9割がた調べることが出来た。

マンションの場合はそのマンションの住人のふりをして、侵入してポストの名前をみる。

大人でやれば即アウトだが、当時小学生の俺はその方法で凌いでいた。

怪しまれた時は友達の家に遊びに来たといって、入っていた。

中学生の頃の俺は、それ以外にも目的の人が消えた付近のアパートや家の表札を片っ端からみたり、その他の目撃場所とその時の状況を推理し、一番可能性がありそうな場所を捜索するなどしていた。

お陰で、土地勘を掴むのは大分上手くなっていた。

どれくらい上手くなっていたかというと、専門学校の実習で初めて行く土地で、事前に経路を確認しようと早めに乗った電車が遅延し、集合時間2分前くらいに駅について、もう地図を見てたら間に合わないと勘で道を選び、一度も曲がり角を間違えずに最短ルートでその集合場所に着いたくらいだ。

俺は電車の中で集合場所の写真だけを見て、雰囲気だけで、この集合場所があるのはこの土地だとあのあたりだろうと、駅を出た瞬間の景色から立てた予想が見事に当たったのだ。

高校生の頃に至っては、探偵がやるような尾行の仕方を独学で身に着けたくらいだ。

勘で最適な尾行方法を実践していたら、テレビの特集でやっていた探偵の尾行の仕方が同じで驚いた。

九つ目。プリンスだ。

これは、自分の意思ではなく周囲の期待に沿った行動をとるタイプのことだ。

悪く言えば八方美人。

自分の考えが無いといわれるのがこのタイプ。

他人軸。恐らくこの言葉が一番しっくりくるだろう。

他人の考えが自分の考え。

相手に対してどうしたいか聞いているのにどうすればいい?と聞いてくるのがこのタイプ。

これは自分への圧倒的な自信の無さからくるものだ。

自分の意見を言うのがとても怖い。

この背景には、自分の意見を言うことで否定され続けるといった経験がある。

否定され過ぎて、もう自分の考えを伝えても否定されるから、相手に聞いた方が早い。

だから、自身の考えを放棄し、相手の考えを聞く、が最初に来る。

俺はこのタイプに陥った時、よく自分の考えはないのか?と言われて心が重くなった。

高校の面接や就活の場面で非常に困るのがこのタイプだ。

こうしてみるだけでも、俺はアダルトチルドレン9種類をコンプリートしていた。

割と重傷だった。

このアダルトチルドレン9種類の体験談は主に小中学校で経験したものだ。

俺は後にも先にも人生で一番辛かった時期はここだと断言できる。

まるで人生でする一生分の苦労をここに凝縮したかのような不幸の連続だった。

どん底って言うが、底は何時見えるのだろう?といった気分だ。

さて、少し話はもどるが、俺は小学校の頃、自殺しようとしたことがある。

しかし結果はこれを見て分かる通り、失敗に終わる。

いや、未遂という方が正しいか。(正確には未遂とも言えないかもしれない。)

俺は小学校5年生の頃マンションの3階のベランダから飛び降りようとして、下を見たが、下を見た瞬間、多分死ねないであろうことを直感的に気づいてしまい、今現在の地獄に引き戻された感覚で、救いがないと思ったのを覚えている。

その後、部屋に戻り少しした後、自身の呼吸が少しおかしくなっていることに気づいた。

突如息がしづらくなり、終いには肺が広がった状態で固定され息を吸うこともはくことも出来なくなった。

後から調べて分かったことだが、この時の俺は過呼吸と同じような症状に陥っていた。

俺はこの状態に成った最初、このまま死んでもいいやと、息をすることを止め、その場でぐったりとしていた。

しかし、意識が朦朧として来て突如俺は無意識に無理やり呼吸をしようとした。

勿論、肺が一定の広さで固定され息を吸ってもはいても呼吸をすることが出来なかったが、それでも俺は呼吸が出来るようになるまで無理やり呼吸行為を繰り返した。

この時の俺は頭や体内の血管数本は切れてもいいという覚悟で呼吸行為を繰り返した。

その結果、暫くして、突如肺の固定は解除され、その代わりに横隔膜のあたりが激しく脈を打ち始めた。

そこで俺はようやく無意識に呼吸が出来る体に戻ったのだ。

無意識に呼吸が出来る体に戻った直後は度々肺が固まりかけたが、それは呼吸に意識を介在させることで防いで安定させた。

後から振り返ると、普通じゃない出来事だがこの時の俺は自分が思っていたよりも死は近くにあることを深く実感していた。

同時に、やっぱり死ねないと感じた。

今でもその理由は分からないが死にたくないと思ったのだ。

他にも高校生の頃には肺気胸らしき症状に襲われたこともある。

その症状とは普通に過ごしている時に突如、肺をまるで細長いナイフで刺されたかのような痛みが走るもので、俺は直感で肺が破れると思ったのを覚えている。

まぁ実際にはもう破れているのだが。

この時の俺は、即座に呼吸によって肺が広がったり縮まったりするタイミングで痛みが走ることを突き止め、意識的に細かく小さく呼吸をし、肺の拡張と縮小を痛みが出ない範囲に抑えつつ、呼吸を維持することで凌いだ。

この時に俺は、息切れしない動き方を身に着けたように思う。

今思えば、怪我をしているんだから安静にしておけよと思うが、この時の俺は心も体もボロボロの癖にじっとはしていられなかった。

本当にそれは肺気胸なのか?という疑問があるだろうが、そこの確認はぬかりないから安心してほしい。

専門学校時代の健康診断である程度確かな証拠はとれている。

みぎせんブラの疑いあり。

確か、俺の健康診断の紙にはこう書いてあった。

そのみぎせんブラという文字を見た時、俺が痛みを感じた肺の位置と同じに思えたので、このことを健康診断を終えた後の問診の際に医者に、これは肺気胸になると出来るのか?と聞いたところ、少し不思議そうにそうですが?と答えてくれた。

まぁ、ただの健康診断でいきなりこんなことを聞いてくるなんて不思議に思うだろうが、俺はこの時、俺の直感はある程度現実に即した形で働いていると思ったのを覚えている。

さて、話が大分前後するが今度は俺が中学生の頃。先の大震災の少し後。

俺は、大震災の予想を凄いと言った女子生徒をすこし好きになる。

経緯は文化祭。

その人が文化祭の劇で演技をしているのを見て純粋に人としての有り方がかっこいいと思ったことが理由になる。

しかし、その熱も一か月もすればある程度覚めてしまったのだが。

ここで問題だったのは、当時の友人にその人が好きだと言ってしまっていたことだ。

つまり、好きと言っている以上、好きという状態を消化不良のままにしておけなくなったという、小学生の頃の何かを彷彿とさせるような状況になったのだ。

中学生の頃の俺は、小学生の頃の俺よりは行動力があった為、半分は純粋な好意で、もう半分はこの曖昧な状況をはっきりさせる為にその気になる人に告白した。

結果は惨敗だった。

俺はこの結果自体には少し落ち込みはしたが、まぁ仕方ないと思った。

しかしこの告白の翌日、この気になる人の取り巻きの女が、あの人は今好きな人がいてその人との関係に悩んでいるのに何様のつもりだと、今冷静に考えれば誰だお前的な案件の奴が俺を激しく叱責した。

しかし俺はこの時、凄まじい罪悪感に襲われた。

俺は当時この誰だお前的な女に真面目に、そんな背景があるとは知らなかった旨を説明するとともに、それでも悪かったと表面的には謝罪した。

そうしたところ、相手の女も少し取り乱してお互い謝ることで決着はついた。

しかし、この出来事は俺の考え方を大きく変えた。

自身の周囲に置く人間は選ぶべきだ。

取り巻きがここまで害悪だと、その取り巻きと仲が良い本人の評価も悪くなる。

無能の害悪。

やっぱり他人は信用できない。

信用するには思慮が浅はかすぎる。

まぁ、事前にそうした背景があることを調べておかなかった俺にも少し責任があるか。(いや、多分ない気がする。)

この情報格差は俺の友達の少なさが影響している。

だがそれにしたって勘違いで人に怒りをぶつけるなんて、やっぱりこいつは俺より人間的に下だ。

俺は中学生の頃、周囲の人間を自分より上か下かで見るという、普通に差別的な思想を持っていた。

本当に人間として上なら、怒る以外の方法があることに気づけるだろうと思っていたのだ。

この根底にあるのは、毒親家庭で怒られまくってもう怒られたくないという感情からくるものなのだが、今思えば中学生にこれを求めるのは酷だとよく分かる。

どんなに出来た人間でも最初からそこまで出来たら、凄いを通り越して怖いからだ。

ここから俺は基本的に人間を信用しないという性悪説を中心に生きることになる。

リスクヘッジにはこの考え方は今でも最適だと思うが、感情に重きを置く人にとっては、とても悲しい人間に写ることは十分に理解している。

それでも、俺の性格と特性上、一度でも想定外が起こればひどく狼狽える俺にとってはこのスタンスは総合的にメリットの方が多かった。

しかし、このスタンスを取り始めた頃から周囲の人たちが俺を悲しそうな目で見るのが感覚的に分かった。

分かってるよ。何にも難しいことは考えずに他人と仲良くしていきたいってのは。

けど、俺はそれが出来ないんだよ。

お前らが目につかない小さなことまで俺は目につくから、日常の情報量がまるで違う。

情報量が違うってことは、疲れやすいってことだ。

そうすると、物事に対する折り合いのつけ方も変わってくるんだよ。

お前らが無視できることも俺は感じてる。

けど、お前らが無視してるから俺も無視するように努めてる。

それなのにお前らはちょっとしたことであれは出来ないこれは出来ないと愚痴ばかり。

お前らに合わせて我慢してるのがばかばかしくなってくる。

どうあってもお前らとはぴったりはまりそうにないな。

後でまた詳しく説明するが、俺はエンパスとHSPの特徴がある。

ここでざっくりというと、他者より色々と感度が高い人のことをそう呼ぶ。

この感度は本当に様々なことに働き、後の人格術の再現度の高さは俺のこの能力ともいえる特性によるものが大きいが、今まで(主に毒親関係で)は逆にマイナスを強めていた特性であった。

今でこそ、ある程度(人格術のチートのような特性によって)オンオフが出来るようになったが、この特性は本来オンオフは不可能。

分かり易く言うと、某災難超能力漫画のテレパシーが近い。

自分の意思に関係なく、体が生命維持活動を続ける限り常時発動する。

その為、俺は年を重ねれば重ねるほど、周囲と価値観が離れていったのだった。

そして、高校性になった頃。

初めて、異性に好かれるという経験を自覚する。

きっかけは友人のある一言。

「あれ、お前を待っているんじゃね?」

この時、俺は友人たちといつものように学校から帰っていた。

そして、その学校の帰りの際、かなりの頻度で道路を挟んだ向かい側のバス停でバスを待っている女子がいた。

その女子は当時俺と同じクラスで友人たちも何度か目にしたことがある。

俺は友人の唐突な発言に純粋に何で?と返した。

そうしたところ

「そりゃぁ・・・。」

と、少し濁すような発言をした。

そこで、俺は色々と察したが、同時に少しイラっとした。

何故か。

まず、仮にその女子が俺と帰る為にいつも俺が通る道の近くのバス停で待っていたとしよう。

この前提で推察すると、この女子は少なくとも俺に好意があるということが予想できる。

ここからが俺のイラっとポイントだ。

気になっているなら何で自分から話しかけようとしない?

俺は自分の都合で好意を持っているにもかかわらず、相手から動いてもらおうという腹積もりにイラっとしたのだ。

友人はほっといていいのか?と聞いてきたが、俺は抑々友人が指摘しなければ気づけないような印象の弱いアピールしかできない時点で何も始まらないと思っていたので、本当に好きならそのうち来るでしょと言ってシカトを決め込んだ。

というのも、俺はこの友人が指摘する前からこの女子がよくバス停にいるのを気づいていた。

高校生の頃の俺は他人との関係を戦に置き換えて考えていた。

今でもその傾向が強いが、この頃は他人と仲良くする気などさらさらなかった。

戦いにおいて重要になるのは、如何に有利な状況を維持し続けるか。

状況としては、俺と友人3名対1人の女子。

恐らく、俺が一人でいるところを彼女に見つからない限りは、彼女が自分から接触することはないだろうと踏んでいた。

つまり、俺が気を付けなければいけないのは、一人でいる間だけ。

長年毒親と争いを続けてきた俺は、長期戦のスタミナ管理の仕方が他の人よりうまかった。

友人と一緒に帰っている間は、精神もとい神経を休めることが出来る。

休める時に休んでおかないと、体は壊れてしまう。

人生が戦だった俺にとって防衛戦は得意中の得意だった。

勝たなくていい。

敗北条件はバス停の女子に近づかれること。

つまり、俺は彼女が近づけないと分かっていながらあえて無視をしていたのだ。

友人を自身の安全を確保するコマのように考え、この優位性を崩さない為にあえて友人にも気づいていることは知らせない。

知らせてしまえば友人は気を使って俺を一人にしてしまうから。

敵を騙すならまず味方から。

俺が打つ手を間違えない限りこの状況は崩れない。

これを崩したいなら、動くしかない。

この頃の俺は、人に対しての情が無いに等しかった。

それに俺は小学校中学校の頃のトラウマから他者がどんな無能属性を抱えているか分からない限り、仲良くなる可能性はないと思っていた。

無能属性とは俺だけの言葉で、こちらが望んでもないことをする無自覚の無能性をどれだけ持っているかということを示す。

例えるなら、出来る可能性もないのに出来ると言っている無能。

それにより周りを巻き込み振り回す無能。

人に助けてもらえるのが当たり前だと思っている無能。

残酷な事実を直視できない無能。

自身の実力を見誤る無能。

俺は当時知性とは勉強ができるという事よりも、こうした生きていくうえで必要な考え方が出来るかどうかに現れると思っていた。

というか今も思っている。

いくら学歴が高くても、生命の根幹に関わる事象への対処を思考できなければ頭が悪いと俺は認識する。

また異性から好かれているという普通の思春期の高校生なら喜ぶ状態を俺はとても恨んでいた。

理由はこれまた小学校、中学校で受けた恋愛でのトラウマだ。

俺は勝手に小中学校時代に俺にこうした感情を抱かせた無能たちに、後悔してほしいと思っている。

己の無自覚な行為が後々にどのような結果を生むのか。

そのことによって墓穴を掘る愚かさを後悔しながら、どうしようもない今に絶望し死んでいけ。

俺は小中学校時代の同年代にそういった感情を抱いている。

イライラしている場合じゃないだろ。

人の心配をしている場合じゃないだろ。

まずは自分の問題を解決しろよ。

小中学校時代に向けられた感情を大人になって返すかの如く勝手にそう思っていた。

男女問わず人間というのは勝手で人の話を基本聞かない。

それは俺の経験がよく示している。

好きな人がいないと本人が言っているのに嘘だと断言したり、頼んでもいないのに勝手に一緒に帰る状況をセットしたり、逆に嘘で教えた名前を本気で信じたりと知っている事実が本当か嘘かなんてどうでもいいんじゃないかこいつらは。と思うような経験を沢山してきた。

その為、この頃の俺はどんな異性に対してもこんなのの何処に惹かれるんだ?と物を見るかのような目で見ていた。

まぁ、異性に限らず周囲にいる人間全体をそうした目で見ていたのだが。

友人のことは、一緒にいて楽しくはあるけれど、建前でこなす程度だなと、これまた冷めた目で見ていた。

少し話は変わるが、俺の高校には週に何度かカウンセラーが来ていた。

当時俺は心理学の知識を片っ端から調べていて、進路について少し考え始めていた頃で、自分の中である程度知識は溜まったし、今度は実践だと思っていた時期で、俺はどうやったら実践的な技術を磨くことが出来るだろうと苦心していた。

そこで俺はこの週に何度か来るカウンセラーを利用しようと思い立ったのだ。

どういうことかというと、実際の人に対して自分の知識が何処まで通用するのか試してみようというのと、あわよくばその実験台のカウンセラーから技術を盗めるなら盗んでしまおうと考えていたのだ。

つまり、自分の対話技術をカウンセラーの人と話をすることで確かめるとともに、対話しながら、相手の技術を盗みそれを応用しようと考えていたのだ。

俺はこの方法で何度かカウンセラーと対話し、自分の実力を確認した。

今思えば、かなり迷惑なことをしたと思うが、当時の俺は自分の技術を極めることに夢中になっていた。

人格たちが出来ていったのもこの頃だ。

俺は天使たちと別れる前になるべく多くの人格を作った。

モデルは全員天使たちだ。

此処からしばらくは天使たちの特徴を紹介していくとともに、俺の人格術について紹介していこうと思う。

まずはシェンス。

彼女はピンク色の髪で癖っ毛だった。

要するに天然パーマ。

そして、そのパーマはラメがふってあるかのようにキラキラと光っていた。

シェンスは思考に関しては右に出る者が居ないほど、優秀な天使だ。

なので、シェンスを元にした人格には高度な思考能力を要する事柄への対処を目的とした知識を持たせた。

というより、その知識を引き出すトリガーをモードシェンスには持たせた。

人格術には本当に様々な可能性と力がある。

その一つがこれだ。

知識の分割保存。

ふつう、人は脳一つ分の知識と記憶しか持っていない。

しかし、俺はそうではない。

俺は人格術という人の格を外部(無意識層)にストックすることで、その中に人格の人数分の記憶と知識を所有することが出来るのだ。

まぁ、正確にはそういう設定なのだが。

しかし、設定というだけでも知識の引き出し方を決められるのは、持ち得る知識を余すことなく使うには便利すぎる設定だった。

俺は知識と記憶の種類を天使ごとの思考の癖をトリガー(前意識)にすることで管理していた。

シェンスと関わった時に得た知識や経験、その時の記憶はシェンスの人格を憑依させるという行為(トリガー)で引き出すことが出来る。

もう少し分かり易くいうとファイルだ。

フォルダともいう。

大体の人は仕事の時、書類をある程度の大枠を決めて分けていると思う。

営業部、経理部と種類ごとに。

俺の人格術の管理はそれだ。

まず、人格というメインフォルダの中に、シェンス、イプノ、ビランチといったフォルダがある・・・と言った具合だ。

“人格”というくくりで分けた圧倒的な記憶と知識。

それが人格術なのだ。

俺はこのフォルダになるべく多くの記憶と知識、経験など詰め込めるものは全て、天使たちと別れる前に詰め込んだ。

正直言うとこの管理法の発案も人格術による功績が大きい。

この管理法はプーロやビランチが力を発揮する時の精神状態を参考にして作った。

プーロやビランチは自身の力を100%発揮する際、自身の意識の支点を意識層から無意識層まで落とし、その無意識層に意識の支点を置いた時の心の状態に任せるといった方法で力を発揮していると教えてくれた。

俺はこの意識→前意識→無意識の考え方を参考にし、無意識層に人格フォルダ。前意識層に無意識層の人格フォルダを引っ張り出すトリガーを設置することで、人格術を発動する形態を決めたのだ。

次はフェア。

彼女は白髪のストレートボブで眼鏡をかけている。

そして、気持ちをオンにする時、右手で眼鏡のテンプルを触り、眼鏡をかけ直す癖がある。

俺はこの癖を少しアレンジし、利き手でこめかみを触る行為をフェアを憑依させる時のトリガーにしている。

フェアの最大の特徴は何といっても類を見ない程のコミュニケーション能力の高さだ。

コミュニケーションと言っても相手の話を聞くのが上手い人や、討論が上手い人と種類はいくつかあるがフェアはこうしたコミュニケーション全般が満遍なく得意だ。

相手が憔悴していれば、心理カウンセラーが使うような傾聴を行い、相手が怒っていてまともに話が出来る精神状態でなくとも、元々のニュートラルな状態ならば話せる相手ならネゴシエーターの如く、冷静な話し合いに持っていく。

そして、相手がこちらを打ち負かすことが目的の討論やディべートにおいても、冷静に客観的事実と論理的な解釈を用い、美しさを保ちながら相手より優位に立つ。

まさに智天使の肩書に恥じない実力を彼女は持っている。

つまり、彼女は“言葉”が関係する場面では常に優位に立つことが出来る能力を持っているのだ。

俺はそんな彼女にどうやったらそんな風にコミュニケーションが上手くなるのか聞いたところ、彼女曰く

「たいていの人は会話をしっかりやろうとし過ぎています。しっかりと形式道理にやろうと事実確認や論理性を主に置いていますが、実際、言葉とは感情を共有する為のツールでもあるのです。なので、相手と親しくなる目的で使うなら感嘆詞を使うのが良いでしょう。また、会話とはどんな言葉を相手にあてがえばいいか?という、一人一人がまったく種類の違うパズルのようなものなので、会話が上手くなりたいなら奇の衒った言葉を覚えるより先に、人を見る目を養うことをお勧めします。人を見る目の高さがそのままコミュニケーション能力の高さに繋がります。」

とのことだった。

俺は高校時代に知り合い、専門学校卒業の約7年間、フェアと共に様々なタイプを相手に会話や観察を行い、対人技術の向上を図った。

次がモルテ。

彼は外見的にはこれといって特徴的なところが無かったが、思考能力に関してはシェンスとはまた違った特徴があった。

シェンスは、今現在見つかっていない新たな理論を見つける思考・・・つまり、発想が得意だったが、モルテは今現在の事実を元にこれから起こるであろう出来事や、その出来事が起きた場合はこの対処が必要になる、といった現実を元にした未来予測が得意であった。

俺はこの思考によって随分助けられた。

最初に思考という行為を真似した対象がモルテかもしれない。

モルテの思考は俺の思考法の原点だ。

例えば、今の国の選挙制度を題材にしてモルテの思考を行うとこうだ。

選挙にいこう!という主張が正当性を帯びているかどうかの検証。

まず、これを検証するのに必要なのは、若者や今現在の労働力人口(ここでは高齢者以外)と呼ばれる世代の意見が投票に行くことによって、非労働力人口(高齢者)の総数を上回ることがあるのかという事実。

まず、投票権の範囲。

18歳以上のみ。

ここで、労働力人口の内15歳から17歳は切り捨てられる。

そして、ある程度社会を担っている世代の意見を反映させるという観点で、労働力人口の中から定年で区切ったところ、労働力人口(18歳以上65歳以下と仮定)となる。

ここで更に非労働力人口(66歳以上116歳以下と仮定)とする。

理由は選挙権に上限はなく、今現在の国の最高齢が116歳の為である。

ここから少し算数だ。

労働力人口の選挙権人数範囲(65―18=47)。

非労働力人口の選挙権人数範囲(116−66= 50)。

結果、絶対数47対50により、仮定としてこの国の全ての人間が選挙に行ったとすると、非労働力人口の意見が通ることが証明された。

これはかなりざっくりとした見立てで何の根拠もないが、少なくとも、選挙にいこうという主張に正当性が無いことが明らかになったと考える。

また、選挙に行かない人の方が理にかなっているという証明にもなっていると考えられる。

この問題を解決する方策としてまず挙げられるのが、選挙権の上限設定。

判断力が無いということで選挙権が与えられないというならば、同様にして剝奪するべきだと考える。

つまり、これからの社会をある程度担っていく世代(仮定として18歳以上65歳未満)に選挙権を限定するという方法。

例えとして適切かは分からないが、運転免許には高齢者に対して返納を進める動きが、最近ある。

この理由は、高齢になり過ぎて運転に適さない認知能力になってきている為。

アクセルとブレーキを踏み間違えるなんて、運転するうえでは致命的な欠陥だし、それで人を殺してしまうケースもよくある。

今現在この国は、後はただ余生を全うするだけの人々の意見が反映され過ぎている傾向がある。

この言い方はかなり抵抗を生む人が多いだろうが、国の本来の役割を考えるとこの傾向は非常に良くない。

何故なら、国の役割はその土地に住まう人々の共生と統治だからだ。

いかに人類を日々安全な形で統治し続けていくか。

この国の端々にこの傾向が見て取れる。

例えば、某メンタリストがさんざん叩かれて大炎上した生活保護。

これは、働いている人からすればとても恨めしい制度だ。

働かずして生きていける。

こんなに楽なことはないだろう。

しかし、国の統治者的視点で見ると実に理にかなった制度だ。

まず、働かない人には様々な理由で働けない人がいる。

精神的に、肉体的に、タイミング・・・と本当に色々と。

しかし、多くの人間をおおざっぱに管理することしか出来ない国としては一人一人個別に対処なんてしていられない。

しかし、対処をしなければどうなるか?

働けない人だって日々、食べ物を食べて、睡眠をとって生活しなければならない。

その為、そうした人々が社会の端々で問題を起こしていく。

食べ物が無いから盗みを行う、お金が無いから強盗を働く、平穏に暮らせる場所が無いから駅や公園に居座る、自分の辛い状況が我慢ならないから幸せそうな人を明確な理由もなく襲う。

つまり、国の治安が悪くなる。

国としてはこうした人々が増えることは間違いなくデメリットだ。

そして、そうした人々によって町を破壊されたりすれば間違いなく社会の損失だ。

しかし、生活保護があれば?

大抵の人は生命の保証がされれば、気持ちは落ち着く。

食べ物を買うお金があれば、住む家があれば、人としての尊厳が尊重されれば人はめったなことは起こさない。

つまり、生活保護とは人としての尊厳を守ることで、国の治安を維持する優れた制度なのだ。

暴れられるデメリットと無償でお金を与えるデメリット。

これは損得ではなく、どちらの損がより小さいか。

こうした視点で見るべき制度。

モルテの思考を使えば、偏差値40の俺でもこれくらいの思考が出来る。

次がオルゴ。

彼は白髪で長髪。

そして、偉丈夫。

彼は後に挙げるフォルテ程ではないが、気合で何でもできるイカレた精神力の強さを持っている。

それに彼が最も優れているのは、状況判断の正確さだ。

自他の力量、その場の立ち回り、自他の役割分担などある意味、戦場の指揮を執るには最適な能力を彼は持っている。

こうした状況なら自分はどう立ち回るべきなのか。この人にはどの役割を与えれば、最大限に力を発揮するのか。

現代なら上司にいるととても頼りになる存在。

それが彼だ。

それにオルゴは外れクジを引いた時の対応能力の高さもピカイチだ。

この能力は毒親家庭で生きてきた俺にとってはとても重宝した。

人間だれしも生きていると、巡り合わせの悪さというか、本人の努力じゃどうしようもない運の悪さに遭遇することがある。

俺は、天使たちと出会う前、こうした運の悪さが滅茶苦茶あった。

二日に一回はもう最悪といった、頭がショートするような事態に見舞われていた。

オルゴはこうした事態の対処がとても上手い天使だ。

臨機応変。こうした言い方だと分かり易いだろう。

この臨機応変さを最初に知ったきっかけの天使がオルゴだ。

今ではある程度非常時に対し臨機応変に対処できるが、それでも俺の根幹は何事も起きないのが安心というガチガチの想定外大嫌いマニュアル人間だ。

なので俺は全てが想定内になるような能力値になるよう日々努めている。

想定外に弱いなら全てを想定内にしてしまえばいい。

そうすれば弱点は弱点ではなくなる。

次がラーナ。

彼は緑色の髪で感情の起伏が少ない喋り方をする。

そして、嘘が上手い。

彼の嘘のつき方は、事実と違うことを言うといったものではなく、その場の環境と自身の立ち振る舞いを利用して、相手に誤解させるといった、ミスリードを誘う噓のつき方をする。

例えば、相手が何か探し物をしている時。

彼はそれが何処にあるか知っていたとしても、ここにあるよとは絶対言ってくれない。

彼は相手が探している姿を見ながら、それはどんなものなのか、どういったことに使うのかと、知っているくせに普通に世間話をする。

つまり、彼は表面的には自分が嘘をついたことにならないような相手の騙し方をするのだ。

そんな彼に、人を騙す時の基本を教えてほしいと言ったら

「そうですねー・・・あ、あれなんですかー?」

と言われ、俺は咄嗟にラーナの見ている方向を見たら特に変わったことが無かったので、何だったのか聞いたら

「今のですよー。」

と言われた。

つまり、俺はこの時ラーナに誘導されて何もない方向を見たのだ。

ラーナは人を騙す基本は今の対応に全て詰まっていると話していた。

如何に他人に自覚させずに誘導するか。

如何に自分で選択したと思わせるか。

これが偽りの技術の本質だと言っていた。

次がフォルテ。

彼はオルゴ以上の精神力の強さを持っている。

そして、実は戦闘狂だ。

熾天使でビランチの傍にいる公正さを求める天使として最初は立っていたが、彼と話している間にその片鱗が端々に現れていた。

天界の治安維持を目的にしているという名目こそあるものの、彼は定期的に戦わないとなんか気持ちがすっきりしないと言っていた。

しかし、このフォルテの心持ちは自分より強い相手(主に毒父)に立ち向かう際に力をくれた。

フォルテは自分より強い相手と戦えると思うと無限に心の力が湧くらしく、そのお陰で、体がボロボロになっても動けなくなることはないと言っていた。

次がセイ。

彼は紺色の髪の色をしていた。

そして彼はラーナと違った嘘のつき方をしていた。

彼は自身の思い描いた人物像を徹底的に演じ切ることで、自分のオリジナルの人物像の癖を消すといった嘘のつき方をする。

話し方、仕草、立ち振る舞い、声色など人からにじみ出る特徴全てを演じ切ることで全くの別人のように相手に認識させることがセイの特技だ。

これは他者を一人一人よく観察し、それを再現できる演技力が無ければ不可能だ。

セイはこれをする時は細かいことは考えずに演じることに集中すると言っていた。

演じているこの人物ならこういう時はこうするといった行動を再現し続けることで、それが自分の中で普通になり、結果違和感なく再現出来るようになる・・・と。

俺の人格術の体現の仕方はセイのこの嘘のつき方からきている。

ここまでくると勘の良い人でなくとも分かるだろうが、人格術は天使たちと共に積み上げていった技術なのだ。

次がウーノ。

彼はとてもやさしい天使だ。

そして争いがとても嫌いだ。

彼は自分よりも仲間を優先する性格で大逆の時も堕天使を捕縛する為ではなく、仲間が一人でも傷つかないように立ち回っていたと話していた。

そんな他者を尊び、思いやる心が天使の中で一番強いのがウーノだ。

次がヴェン。

彼は黒髪で切れ目。

そして武術が得意だ。

ヴェンは武器を持たない状態での体の使い方を色々と教えてくれた。

まず、どんな状況でもある程度通用する構えとして教えてくれたのが、腰を少し落とし、半身になる。

そして、両手の平は指の間をあけず閉じる。

これは、指割き対策だとヴェンは言っていた。

指割きとは何か?とヴェンに聞いたところ、指割きとは手の中指と薬指の間を思いっきり広げることで相手の手を割く技だそうで、この技は本来女子供のような力が弱い人が護身としてよく使う技術だそうなのだが、稀に戦いの時それを使ってくる相手がいるそうで、食らうと大きな隙が出来るとのことだった。

そして構えの続きだが半身になった時の後方の手は自分の顎の下に構える。

これは、顎への攻撃で脳震盪を起こさない為と言っていた。

そして前方の手はというか腕は肘を曲げ、剣の正眼の構えかのような位置取りをする。

理由は相手の攻撃を捌くのは主にこの腕だからだそうで、相手のパンチは基本、この前方の腕の肘から上を動かすことで捌くとのことだった。

捌き方は横から当てる。

どういうことかというと、まず真っすぐとパンチが飛んでくるとする。

そうしたところ、そのパンチを放ってきた腕に横から自分の肘から上(主に手の平か手の甲)を当てパンチの軌道をずらすだけで攻撃は当たらなくなるとのことだった。

またヴェンは相手の拘束の仕方も教えてくれた。

まず、相手が右手でパンチを放ってきた場合。

同じく右手の手首より少し下の腕(手首でやると痛める為)で相手のパンチの軌道を右にずらす。

そして手首より少し下でとりあえず右に軌道を逸らしたらその直後、その軌道を右下に変えつつ、相手の手首をつかむ。

そして、掴みながら今度は相手の肩甲骨付近に左手を回しながら、右手で掴んだ手首をそのまま軌道をずらした右下に引っ張る。

この時の引っ張る力は相手の推進力もあってそんなに要らないとのことだった。

そして、肩甲骨近く(正確には首に近い肩)に左手が回ったら、今度は手首をつかんだ右手を相手の手首を掴んだまま背中の中心に回しつつ、左手を逸らした軌道に向けて押し込み、相手を地面に追い込む。

そうすると相手は右手が背中に回された状態で地面に伏せた状態で身動きが取れなくなると言っていた。

しかし大体の相手はこの状態から抜け出してしまう為、駄目押しで左足を使って、左膝を右腰に押し込み、左足首を自身の筋肉である程度固定し左腰に引っ掛けると言っていた。

これでよっぽどの体格差でもない限り拘束が解かれることはないと言っていた。

この技術を俺は実際に使ったことこそなかったが、いざとなれば何とかなる手段があるというだけで大分心の支えになった。

次が、ヴェッキ。

彼はナルシストでぶっきらぼうな長剣を扱う天使だ。

そして彼は特殊な剣術を扱う。

正確には抜刀術。

ヴェッキは俺に抜刀術のやり方を教えてくれた。

まず最初に納刀の状態。

刀は刃が上を向いた状態で納刀し、立つ。

そして抜く際は刀の鍔の近く(正確には縁の近く)に親指をかけ、刀の頭を下にした状態でまるで刀を地面に落とすかのように抜く。

この時のポイントは刀は握らず親指で引っ掛けた力で抜くことと、この時に鞘も同時に引くこと。

ただ刀を引っ張るだけでは上手く刀は抜ききれないとヴェッキは言っていた。

そして鞘は刀を抜きながら徐々に刃が上から横になるように回す。

更に、この抜く動作と同じくして、体勢をクラウチングスタートのように屈め、後は抜刀して振り抜くのみという状態に持っていくと言っていた。

そして、刀を鞘から抜き切るタイミングが一歩目の踏み込みの直前になるように、調整することが出来れば抜刀術は使えると言っていた。

一番簡単な抜刀は相手に向かって走っていき、相手の一歩手前で踏み込み、その時に抜刀の動作を始める。

そして、二歩目の踏み込みのタイミングに合わせて抜刀の動作を終わらせれば、理論上は当たるとも言っていた。

抜刀の際、鞘が邪魔になるのであれば刀身で鞘を滑らすだけ滑らせ、後ろに捨てても構わないとのことだった。

鞘の位置取りに意識を割かれるくらいなら、刀身を相手に当てることに意識を集中させた方が良いという事だろう。

そしてヴェッキは長剣の扱い方も教えてくれた。

ヴェッキは抜刀術の使い手でもあるが長剣の使い手でもあった。

俺は抜刀術に長剣なんて、とても不釣り合いだと思った。

ヴェッキはそこはスルーしろと言った。

ヴェッキは長剣を扱う時は周囲に刀身を当てながら扱うのが基本だと言った。

基本、剣は剣道をやっている者なら分かるだろうが、相手に当てようと振って空振りに終わったとしても基本振り抜いて周囲(床や壁)に刀身がぶつかることはない。

唐竹で振っても、刀身は地面にぶつけず、すんでのところで止める。

初心者は剣を振った時の威力に耐え切れず、振り抜いて刀身をぶつけることがままあるが、慣れればそんなことはまず起こらなくなる。

しかし、こと長剣においてこれをやるといくら熟練者でもほぼ確実に肘や腰を痛めるとヴェッキは言っていた。

なので長剣を振る際はあえてフォームを気にせず振った方向にそのまま刀身を当て、その反動で振ることで、体の負担を抑えるのと同時に刀身を止めた時に存在する力みのインターバルを無くす振り方をするのが基本的な振り方だとヴェッキは教えてくれた。

次がラーマ。

彼も抜刀術を扱う天使だ。

しかし、彼はヴェッキと違って華奢な体格だ。

その為、抜刀術のやり方もヴェッキとは少し違っていた。

ヴェッキが抜刀後、刀を腕の力で相手に押し込むのに対しラーマは全身の力を使って相手に刀を押し込んでいた。

ヴェッキは前述した抜刀の動作の後、上半身と腕の力で相手に刀を押し込んでいた。

そしてこれが基本的な抜刀術らしいのだが、ラーマの場合は華奢な体格でそれだけでは十分に威力が出ない為、抜刀した瞬間、腰を思い切り捻ることで刀に腕の力と上半身の力に遠心力をプラスして基本的なレベルまで威力を引き上げていると話してくれた。

しかし、これはとても体力の消耗が激しい振り方の為お勧めはしないと言っていた。

次がトラン。

彼は俺と同じ左利きで、そしてヴェッキともラーマとも違う剣術を使う天使だ。

剣道を習う人なら知っているだろうが、基本剣というのは左手を下に右手を上にして剣を握る。

その為、こと剣において左利きという特性は国語のノートを取るのと同じく、数少ないメリットが享受されるのだ。

トランは基本左手だけで剣の頭の方を握り、相手の剣をいなしていた。

それは彼が得意とするとても有名な剣技によるものだ。

その剣技とは左片手平突き。

この名前だけで色々と察するところがあると思うだろうがそれを心の中だけに留めて進んでくれるととてもありがたい。

トランは左片手平突きのやり方を教えてくれた。

まず、刀の頭の方を持ちながら左手の肘を引く。

この時刀を持つ左手で主に力を入れる指は小指と薬指と中指。

人差し指と親指は刀がぶれないようにする為の固定に努める。

そして刀は地面と平行に持ち上から握る。

その後、腰と腹の間の高さで刀をまっすぐに構え、重心を少し後ろに引く。

そして相手に押し込むように剣を打つと言っていた。

次がヴォルティ。

彼女は今までの殺意全開、生きるか死ぬかといった剣ではなく、相手を如何に行動不能にするか・・・つまり自衛を目的とした剣を扱う天使だ。

俺は彼女に剣を習って初めて、剣道にある程度の価値を見出すことが出来た。

まず相手の剣を自身の剣で防ぐやり方として、剣の扱い方は基本切先を頭上の位置から動かないようにして刀の頭をまるで振り子が動くかのように動かして対処すると言っていた。

唐竹(面)は相手の剣に自分の剣を斜め下から添えるように軽く当てることで逸らす。

そして突きは先ほどの振り子のように刀を動かし軌道を逸らす。

薙(胴)は相手の刀に自分の刀を当てにいくことで弾く、又はそのまま武器を破壊する。

俺はもし剣が折れた時はどうすればいいかと長年解決できずにいた疑問をぶつけたところ、刀身が少しでも残っていればその残った刀身で対応して、根こそぎ刀身が無くなってしまったのなら、柄で対応すればいいよと言われた。

この時俺は、やっぱりこうした窮地に必要になる策に色々と違いが出るなと感じた。

次がブッピラ。

彼は体術と暗器の扱いに長けた天使だ。

ブッピラは俺に投擲武器の扱い方と体術を教えてくれた。

基本投擲武器は決定打になることはない為、気をそらしたり決定打になる攻撃の隙を作る為に使うと良いとのことだった。

そして体術は基本相手を徐々に弱らせていくイメージで打撃を加えていくと言っていた。

小さく細かくなるべく多くの手数を相手に与えるのが基本。

威力はお粗末でよく、この細かい手数の中で出来る隙をちょっとずつ攻めるイメージだと言っていた。

また相手の体勢の崩し方として、自身の足首を筋肉で固め、後ろからその足首で相手の足首より少し上をさらうと簡単に転ぶと言っていた。

次がオッソ。

彼女は黒髪ロングで殺意高めの剣術の中でも更に極まった剣を使う天使だ。

彼女は刺身の切り方を利用し剣を扱う。

やり方は簡単。

相手の体に刀が触れた瞬間、刀を持っている自身の手首を固め手元をブレさせずに引く。

つまり、現代の剣道とは正反対の在り方をする剣だ。

殺る気満々。

この言葉がぴったりの剣を彼女は扱う。

俺はこの剣を知った時、やっぱり一撃も食らわない訓練は必要だと思った。

剣道は打突部位(面、胴、小手、突き)に当てなければ有効とならないルールがある。

しかし、本来人を殺す為に、殺す術の一つとして発展してきた剣は何処に当たっても(やばい)有効なはずだ。

俺はこの有効部位のルールに当初疑問を持っていた。

というか今も持っている。

確かに今は平和な時代でこうしたルールで判定を行うのは理にかなっている。

しかし、それはスポーツの話だ。

剣道は武道だ。

俺は何も真剣で殺り合いたいと言っているわけじゃない。

有効部位以外に雨のように打撃を受けているのにも関わらず、有効部位一つでそちらに軍配が挙がる・・・そのルールは如何なものか?と言っているのだ。

武道とは平たく言ってしまえば修練だ。

あらゆる修練。

あらゆる高みを目指す修練。

さればこそ一太刀も浴びないように立ち回れるようになるのも武道の範疇じゃないのか?

お互い竹刀だけ持って、全て竹刀だけで攻防を行う・・・本当に極まれば防具もいらないと俺は思っている。

そこに至るまでは簡易的な防具を付けて腕を磨けばいい。

防具があるから大丈夫。

ここの雰囲気も俺は理解出来なかった。

そうした油断があるから、鎧ごとかち割られる奴がいるんだろう。

ふつう、攻撃は全て避けるものだ。

それをこと剣道においては、防具で守られるから突っ立って、有効打突部位はおじいちゃんおばあちゃんが声の大きさとフォームの綺麗さで判断する。

つまり、剣道では上手い寡黙よりうるさい下手くそが上に上がるのだ。

俺はそんな面白くもなんともない現代の剣道に嫌気がさし、中学の頃、剣道を辞めた。

俺は剣道は何れは竹刀だけで攻防が出来るようになる夢のような技術かのように見ていた。

なので当時個人的に習いに行っていた剣道の先生には申し訳ないと思っている。

俺が辞めたのは、ダラダラと審査を受け続けて、次は段になれるといった時の段審査で、中学の頃俺は、碌に練習もせずとも1級までは楽に上がれた。

しかし、中学2年生の頃の俺は当時高校生くらいの同じ段審査を受けている相手に対して、一太刀も浴びれないゲームをやって攻撃に手が回らなかった為落ちた。

正確には、声を出さずに(小さい声で)有効部位にちょくちょく剣を当てていた為落ちた。

相手は綺麗なフォームで滅茶苦茶でかい声で動き回っていた為、見栄え的には俺は常に劣勢に見えた。

俺はこの審査の時、殆どの打突部位を無意識に竹刀で防いでいた。

本来なら竹刀で防がずに自分も攻めればよかったのだが、それだと楽しくないと思ったのだ。

俺は楽しくないとやる気が出ないというとても厄介な性格を持っていた。

この性格のお陰で俺はこの審査の時に剣道への熱が完全になくなり、道場に通うことを辞めたのだ。

この審査の後に色々な天使たちから剣を教えてもらうのだが、もしやめる前に教わっていたならもう少し続けていたかもしれない。

俺は剣道を辞めてからの方が剣を必死にやっていたのだ。

剣は元々剣術から剣道になったものだ。

つまり、剣への理解を深めるにはまず剣術から入るのが流れとしては自然なのだ。

如何に殺すか。

そうした道の後に、殺す力を持ちながらも如何に殺さずに相手を制するか。

剣道は剣術の先にある技術なのではないか?

俺は天使に剣を教わっている時この疑問を抱いた。

もし俺の疑問の通り剣術の後に剣道が来るなら本当の剣道は今の時代(俺も含めて)誰も極められないと思った。

何故なら、この通りだとすると剣道の基礎となる部分を剣術が持っているからだ。

剣道を極めるのに人を殺す経験が必要だというなら、もう土台無理だ。

まぁ、まだ剣術は剣術で剣道は剣道という別種の考え方なら分からないが、少なくともそうした剣に魅力は感じない。

次はミスティオ。

彼は金髪で天使の中でも珍しい感知系の神力を持っている。

この感知は人間界で霊感に近いと言っていた。

霊感ではないのか?と聞いたところ、厳密には違うと言っていた。

霊感は霊という特定の存在を感知する感覚という意味だが、ミスティオの感知は生体物から発せられるエネルギー全般を感じ取れると言っていた。

それは何の役に立つのか聞いたところ、何もない空間にそうしたエネルギーが漂っていれば、少し前にそこに生体物がいたと推測することが出来るし、生体物の体内で何か異常があれば、普通の生体物とは違った放出の仕方をしている。

また、周囲の見渡せない森や建物の影にそうした存在がいることが分かると言っていた。

第六感を意図的に使う力が一番近いかもしれないとミスティオは言った。

次がビランチ。

彼女は黒髪ロングで和服が似合う雰囲気を醸し出している。

そして珍しく人間界にある簪を髪留めにしている。

ビランチは心の状態が常に平坦で動揺を知らない天使だ。

ビランチは人間界でいう目に見えない力に対して詳しく、この目に見えない力は人間が認識できる次元とは違う次元にあるとのこと。

呪いや運といった目に見えないものに対する概念に関する知識を多く持っていた。

こうした目に見えないものは確かに存在しているが、これに人間が干渉することは出来ない為、認識するのは至難の業だと言っていた。

これに稀に干渉出来る存在があり、それを超能力者と呼ぶらしい。

そして干渉できる物質を呪具、現代ではパワーストーンというらしい。

呪術は人間の認識ではその通りにやれば、誰でも使えるような言い方をしているが実際は使えた=元々素質があっただけという事らしく、練習でどうこうなるものではないし、幾ら練習しても使えない人は使えないとのことだった。

この目に見えない力はハマればハマるほど良くも悪くもなっていくとビランチは言っていた。

例えば運の良し悪し。

運の悪いという状態にハマってしまうと、本当に落ちるところまで落ちるとビランチは言っていた。

俺の場合はこの時パワーストーンに縋り、そして何度もダメにした。

何も衝撃を加えていないのに黒いヒビが入ったり、変色したりと1週間に一度のペースで交換を繰り返していた。

そして、翡翠、ラピスラズリ、マラカイトなど厄除けの効果があるとされているパワーストーンを何個もダメにした。

そのお陰かは分からないがこの時を境に俺の人生は少しずつ余裕が出来たように思う。

本当にパワーストーンに効果があったのかは今でも分からないが、俺がパワーストーンを持ち始めた頃から俺の人生が豊かになったのは事実だ。

ただ単にこのパワーストーンを持ち始めたことで心に余裕が出来たから世界が変わって見え始めただけということもあるだろう。

だが、ビランチ曰くパワーストーンは目に見えないものの流れを整える力を持っているらしく、その整えるという行為を何度も繰り返したことでようやく本来の流れに戻ったのではないか?と言っていた。

ビランチはパワーストーンを目に見えない力の流れをニュートラルにする道具だと言っていた。

俺はそれはどういうことかと聞いたら、ビランチは下界で言うパワーストーンは運を上げると言われているが実はそうではなく、確かに運が悪いとされる時は上がっているように感じられるがそれはマイナスから0になっただけで相対的に上がっただけらしく逆に運が良い時はプラスから0に落とされる為、相対的には下がったように感じるとのこと。

パワーストーンを身に着けて運が悪くなったと感じる時はそうした時だとビランチは教えてくれた。

しかしパワーストーンは運が悪いと思うから身に着けるのでは?返すとビランチは運が悪いと思って身に着けてさらに悪く感じるということはその時においてはそれが一番運がいいという事で、それ以上に悪くなる可能性からどうにか避けられているんだと考えるべき、そもそも道具に頼りすぎちゃ駄目と少し諭すように言われた。

そしてビランチはこうした整えるという行為をすると分かることがあると言っていた。

それは誰が俺に対して良くないことを思っているか。

目に見えない力は無自覚に使っている人間が殆どで、呪いはその代名詞だとビランチは言っていた。

人間は全員が意図的にこうした力を使えないが、偶に無自覚にタイミングが合う人間がいるとのことだった。

目に見えない力の波と俺を良くないと思う行為とのタイミングが合う。

これが呪いもとい呪うという行為の正体だと言っていた。

呪術師というのはこうしたタイミングや波を掴むのが感覚的に上手い人で常時呪えるといったものではないと言っていた。

そして、この波によって距離場所関係なく飛んでいくエネルギーが呪いの正体だとも言っていた。

しかし、パワーストーンによってこうしたエネルギーの流れを整えるとこれらのエネルギーはニュートラルになると言っていた。

俺はこの話を聞いて呪いは返るのかと聞いたら、返らないと言っていた。

ではなぜ、呪うという行為を行った人物が憔悴しているのか?聞いたら、恨めしい相手が何時までも楽しそうにしていたら心がジワジワと削られるのは当然、これは目に見えないものによる影響ではなくただ単に心理的な問題、こうした感情を抱く時間が長ければ長いほど人は老いていくと言っていた。

俺はこの話を聞いて、自身の身近にいる人間の選別を行うことが出来ると思った。

身近にいるのにそぐわない小学校中学校時代のモブのような人間を排除する方法を俺はずっと探していた。

他にも、人を乗せて運転するにもかかわらず、運転中気絶したということを嬉々として自慢風に話すおかしな奴も身近に居てもらっては困るのだ。

他にもビランチは心の視点を意識層から無意識層に落とすイメージを教えてくれた。

イメージは簡単。

まず、ピアノの調律などに使う音叉をイメージする。

そしてその音叉が鳴った時の音が自分を中心に波紋が広がるかのようなイメージをする。

それだけだ。

これだけで心が凪状態に成り、感覚が研ぎ澄まされるとビランチは言っていた。

この方法は俺にもぴったりで、頭の中でこのイメージをして一息つくだけで、気持ちの準備は出来るようになった。

この音叉の音は耳鳴りをイメージしてもらうと分かり易い。

次がクオーレ。

彼女も黒髪ロングで防御不可の衝撃を相手に与えることが得意な天使だ。

そして剣術の使い手でもある。

彼女の剣は力術という技術が根幹にある為、剣を持たずともそれなりに強い。

この力術は人間界では鎧通しと呼ばれていて、実はヴィツも少し出来る。

この鎧通し、クオーレは片手の掌底と四指球でやっていたが、俺にはとても真似できなかった。

このクオーレのやり方をやろうとすると普通に手首を駄目にするし、それにそれだけの威力を出すのは不可能だ。

クオーレは下界だと両手でやっていたわと言っていた。

しかし両手にしたって最初の衝撃を加える手の上にもう片方の手を重ねるんだから実用的ではないし、痛いから嫌だ。

俺はこれが才能の差かと思ったのを覚えている。

クオーレはこの力術で自身の体と同じ大きさの大岩を割って見せた。

しかも素手で。

俺はやり方こそ知ったが、絶対に出来ないだろうなと、思い出の一つとして心の中に刻んだ。

ここまでくるとよく分かると思うが、俺が戦いにおいて防ぐではなく避けるを重要視しているのは、こうしたそもそも当たったら終わりという攻撃手段を持つ天使を目にしているからなのだ。

こうして俺は天使たちとの記憶を頼りに、人格術を肉付けしていった。

そして俺は、専門学校(何の専門学校なのかは内容で想像し心の中だけに留めておいてほしい)に入学してから様々なことを知った。

まずはエンパス。

エンパスとは人並外れた共感力を持ち、他人の感情やエネルギーに敏感な人を示す言葉だ。

エンパシーという言葉もあるがそれは自分とは異なる価値観や考え方を持つ他人に自己を投影し相手が何を考えているのか、どう感じているのか想像する力のことを示す。

次にHSP。

これは生まれつき非常に感受性が高い人という意味でエンパスと意味合いは然程変わらないと捉えてもらって構わない。

強いて言えばエンパスの方がHSPよりスピリチュアル要素が強いことくらいか。

俺はこのエンパス、HSPの特徴にとても心当たりがあった。

そしてこの能力ともいえる特性にかなり振り回された。

この能力、毒親家庭に居た頃の俺にはただの諸刃だった。

毒親の怒りや殺意を必要以上に感じ取り、それにとても体が恐怖する。

まさに毒。

いつかシェンスが言っていた毒か薬かで言えば俺は毒を溜めまくっていた。

しかしこの能力、薬に働く事象があった。

人格術だ。

俺のエンパスという特性は人格術に対してかなりの薬に働いた。

他人を自己に投影できるということは他人の特徴を再現するにはもってこいの能力だ。

分かり易く言うと、究極の物真似。

エンパスという特性は人格術と相性ピッタリだった。

つまり、俺の考えた人格術はエンパス、HSPの人ならそれなりに使える技術なのだ。

そしてこのエンパス、幾つかの種類がある。

その中でも俺が当てはまるタイプを紹介していこうと思う。(ここから少しスピリチュアル要素が強く現実離れした話をするがご容赦頂きたい。)

まずは感情直感型と言われるタイプ。

これは相手の感情が瞬時に分かるタイプだ。

某超能力災難漫画のテレパシーに近い能力だ。

ただし、視界に入る者限定だが。

しかし、視界に入る者限定と言っても、広い教室や大広間だとうざったいことこの上ない。

まだはじめましての挨拶も交わさない他人に対して、きめぇなとか、感じてしまうのがこの能力だ。

この能力はオンオフが出来なく、同じ空間に居れば発揮される為、予期しない気配を感じた時の心臓の悪さったら言い表せない。

次が知的変容型と呼ばれる、人の思考の構造を自分のもののように体験するタイプ。

恐らく人格術の根幹の一つとなるタイプだろう。

これは、取り組む事象に対して理解している人と一緒に行動すると自分にもその理解度が身に着くタイプのエンパスだ。

これは、ここまできた皆さんならよく分かるだろうが、俺はこの能力を駆使して人格術を使い熟してきた。

俺は長年何故この人格術がしっくりくるのか疑問だったが、この記述を見て合点がいった。

この知的変容型の特性を使って俺は思考だけを再現するタイプの人格術を高校生の頃作っていた。

そして同じく高校生の頃、人格の技術だけを再現するタイプと人格そのものを再現するタイプも作った。

つまり人格術は感情直感型で人格を読み取り、知的変容型で再現するといったサイクルで回っていた。

そして更に人格術を理解するのに必要な知識が古典的条件付け。

古典的条件付けとは生体が本来持っている反応(無条件反射)を呼び起こす、測定可能な生体が本来持っている反応を必ず起こす刺激(無条件刺激)に先行して、本来は生体に反応を起こさない刺激(中性刺激)を与え続けることにより、その反応を起こさない刺激でも反応を起こすようになる現象である。

これはかなり学術的な言い方になるのでもっと分かり易く言うと、よだれが出るという現象を引き起こす梅干しを見るという行為に先行して、ベルの音を聞かせ続けることにより、ベルの音でもよだれが出るようになるという事である。

つまり、よだれが出るという生得的な反応を呼び起こすトリガーを新たに作るのがこの古典的条件付けである。

俺はこの古典的条件付けの仕組みを使い、人格術を盤石なものにしようと考えた。

形態としては生体が本来持っている反応(無条件反射)を天使モードに置き換え、測定可能な生体が本来持っている反応を起こす刺激(無条件刺激)を天使の癖を行うこと又はその天使を思い出す行為に置き換えた。

こうすることで、天使の癖を行うことやその対象となる天使を思い出す行為によって天使モードになるという構図を作った。

これは構図を借りただけで、実際の条件付けとは多分異なる。

しかし、この構図は俺にとって圧倒的な根拠となった。

これはいうなれば盛大な嘘だ。

自分自身への強大な暗示。

幻想でも自信を作るにはこれしかなかった。

そして、その構図を自分自身に条件付ける為に行ったことは天使の癖を行うことやその対象となる天使を思い出す行為の後に、暫く自分がその天使かのような言動や振る舞いを続ける。

これだけ。

これを繰り返し行うことで、その天使モードがその体にとって普通になり、そして天使モードになる前に癖や思い出す行為を行うことで、これらの行為が天使モードになる為の手順もといルーティンだと自分自身の体に覚えこませた。

これで人格術はとても理論的な管理体系へと昇華したのだ。

仕組みは古典的条件付け。

人格の管理方法は分割管理。

根幹を支えるのはエンパスとHSPの特性。

エンパスの感情直感型で自分が参考にしたい人格を読み取り、その読み取った情報は人格というくくりで混ざらないように管理。

再現するのは知的変容型の能力を使い、癖又は思い出すという行為で気持ちを作り顕現。

習得方法は古典的条件付けの反復。

もしこれを崩すならどうするか?

俺はシステムの穴を探す時いつもこういった思考をする。

この思考をすることで作っている時は気づかなかった隙間を埋めるのだ。

まず考えるのは本体を叩くこと。

しかし、癖や思い出すという行為から顕現されることを考えると、叩くのはかなり素早さが無ければ、先を越されてしまう。

それにどれが癖か分からない。

フェアを顕現させる時のこめかみを触る行為なんて、やろうと思えば一瞬で出来るし、思い出すという行為の起こりを止めるなんて現実的に考えて不可能。

なら、憑依させる人格を減らす?

現実的ではない。

そもそも実態の無いものをどう倒す?

さらにそもそもとして、誰が人格術を初見で理解できるだろう?

仮に勘がとても良く、別人のようだと気づいたところで何が出来る?

俺でも何の情報もない状態なら人格が憑依しているという発想にはならない。

恐らく、全ての技術が恐ろしく卓越している個人としてみるだろう。

どう考えても初見で人格が入れ替わっているとは思わない。

仮に気づくなら話し方や雰囲気が変わっている場合だ。

しかし、仮に数人分の技術を扱える個人として気づけたとしても何が出来る?

その個人が何人分の技術を使うのか、あと何人いるのか戦いの中で考えるだけでも戦意は削がれる。

こうして人格術を見ると如何に優れた技術かが良く分かる。

さらに人格術が優秀なのが知識の更新が出来るということだ。

どういうことかというと、今の時代というか人類史においてその時代ごとに生きていく為に必要な知識や技術は異なる。

例えば現代ならパソコンやスマートフォンを使う知識が必要となるし、戦国時代であれば俺が天使たちから散々教わった剣術や武術の持つ如何に相手を殺すかといった生殺与奪の技術が重要視された。

こうした時代によって必要な技術が変わるということは知識をアップデートする必要があるということだ。

ある時代からこうした必要な知識が変わっていくスピードは急に速くなっていった。

俺が人格術を人格というくくりで統一し、習得方法を古典的条件付けの構図で統一したのはこれが理由だ。

俺は人格術を半永久的に使える技術に昇華させたかった。

しかし、時代によって必要な技術は変わる。

ならどうするか?

技術自体を更新することを前提として作ればいいんじゃないか?

人格術の根幹は人格たちではなく、それを管理する仕組みの方。

俺は人間が人間を辞めない限り永久に機能する技術として人格術を作った。

いくら時代が変わろうとも、人間の生得的な反応は変容しない。

だからこその古典的条件付け。

必要な知識が変われば、また新たに習得すればいい。

共通項、人。

これが後々の管理体系に響いてくる。

システムは最初が肝心だ。

どういうくくりで管理すれば、どれだけ長い間同じ体系で管理できるか。

変更しないまま管理できるか。

だからそこの人格というくくり。

どうやったら、常に新しい情報をスムーズに受け入れることが出来るか?

だからそこの古典的条件付け。

習得方法の統一。

どんな知識でも習得方法の根幹は同じ。

人間の生得的な反応を利用し習得。

いつまでも変わらないといつでも変われる。

これを共存させたのが人格術。

情報の更新を想定しながらも、根幹の仕組みは絶対的。

その絶対性は人間が人間を辞めない限り維持される。

こんな完璧な技術はむこう1000年は現れないだろう。

俺は人格術を作った時、勝ったと思った。

そして人格術は前述したエンパス能力をオンオフする方法も編み出したのだ。

それは簡単。

人格を憑依させるだけ。

天使の人格を憑依させている間だけはエンパスの感覚が和らいだのだ。

この憑依。

実は相性がある。

それは恐らくだが、天使の性格と俺の性格がどれだけ似ているか?だと考えている。

類似性。

これが俺がどれだけ天使を長く憑依させていられるかに関係している。

共感性。

これは、俺がどれだけその天使の考え方に共感できるか、これが俺がどれだけ天使を忠実に再現できるかに関係している。

この類似性が高い天使はビランチ、シェンス、フェア、フォルテ、ドラーク。

共感性が高い天使はフェア、セイ、ヴェッキ、イプノ、グラント、ドラーク。

この中でも両方に属しているフェアの憑依率は高かった。

俺はこの人格術は当初世界を相手に効果を発揮したらいいなという願望も持っていた。

今は当然そんなことはめんどくさいし、面白くない為抱いていないが、当時は本気でいつかは世界を取ってやろうという魔王のような心持ちで人格術を極めていた。

そして人格術には更なる特徴として、認知行動療法と同じような特徴があったのだ。

そもそも認知行動療法とは何か?という人もいるだろう。

認知行動療法とはものの見方や考え方の修正によって行動の変容を図る心理療法だ。

俺は天使たちと様々な対話を重ねることで、沢山の視点や考え方を知り、人生が豊かになった。

認知行動療法はかなりざっくり言うとものの見方や現実の受け取り方といった所謂認知の仕方を変えることで精神的ストレスを軽くする治療法なのだ。

俺は沢山の天使たちのものの見方や現実の受け取り方を知的変容型のエンパスで知ったことで、子供の頃より精神的なストレスに強くなっていた。

そしてそうした天使たちの見方を借りて人格術を見ていくと、人格術は技術とも療法とも違う見方が出来る。

それはイマジナリーフレンドだ。

イマジナリーフレンド、空想の友人。

これは通常児童期にみられる現象で、子供の心を支える仲間として機能することが多いという。

俺はその記述を見た時、俺の周りには本当に誰もいなかったんだなと少し悲しくなったのを覚えている。

一番苦しい時に誰もいなかった。

だから、幻想でもいいから寄り添ってくれる存在を作り、それと共に生きてきた。

俺の圧倒的な人間への不信はここからきているのかもしれない。

こちらが苦しい時には嘲笑っていたくせに、自分が苦しくなったら助けろだと?

今の俺にとってお前らの笑い声は軽蔑と嘲笑に聞こえると言った、某忍者漫画のイケメンの気持ちがこの時の俺にはよくわかる。

調子に乗んな、自分の力で生きられないならそれまでだろ。

何?人間は助け合って生きる?じゃあ俺は何で一人で生きているんだよ。

俺は無能が大嫌いだ。

理由は幾つもある。

その中でも、気に食わないのが有能な人も人間だということを考えない知性の低さ。

どれだけ聡明な雰囲気を纏っていても、力が持つ者は弱き人を助けて当然みたいなことを言われると殺意が湧く。

確かに、今の世界、出来る人が出来ない人を助けるのはある程度推奨されるべきだとは思う。

しかしそれはその出来る人が自身の生活を脅かさない範囲で行うべきだ。

今でこそ、文明の発展によって出来ない人の権利はある程度保障されるようになってきた。

しかし、だからといってその権利を振りかざし、出来る人の権利を侵害するのは違うだろうと思う。

恐らくこうした考えが争いを引き起こすのだろうと思うがこれだけは主張しておきたい。

有能な人の権利を守る為にも。

有能な人だって人間なのだ。

出来ない人の召使いではないし、出来ない人が生きる為の道具でもない。

何も俺は障害を持つ方々を揶揄しているわけではない。

あらゆる理由で、こうした他者を尊ぶ心を持つことが出来ない人を無能と呼び嫌っているのだ。

人の心を分からないことがかっこいいと思っている輩。

人の理解出来ないことをして注目を集めるのがかっこいいと思っている輩。

知性を装い、理路整然風に自分勝手な正義を振りかざす輩。

自身の感情を統制できないのに頭が良いとされる輩。

知性は感情の統制も含むと天使は言っていた。

人間界でも感情を司ると言われている部位は脳にあり偏桃体と呼ばれている。

そして怒りのコントロール法も少し調べればネットなどでみれる。

それでも、人は感情を統制しきれない。

盛大に話が逸れた為、戻すと俺の人格術はイマジナリーフレンドとしてみることが出来る。

そして、このイマジナリーフレンド。

大体が児童期で自然消失するが、稀に青年期以降も持続したり、新たに出現したりするケースがある。

そしてイマジナリーフレンドは時に本人の身体活動を行うことがある。

そう、憑依だ。

イマジナリーフレンドが前面に出て行動する・・・これは解離性同一性障害の人格交代に近い現象であるらしい。

つまり、人格術は精神障害を技術に転換した存在ともいえるのだ。

障害を強みに。

ストレングス視点を体現した技術。

それが人格術。

確かに人格術の人格にも意思があった。

専門学校に入学した当初はコミュニケーションをフェアの憑依に頼りまくっていた。

そうしたところ、フェアの人格からもうしばらく憑依したくないと、憑依を断られた期間があった。

俺はこれを境に自分でもコミュニケーションを磨き始めたのだ。

俺はこうして色々な人格とコミュニケーションを図りながら憑依を行っていた。

コミュニケーションを色んな人格と図りながら、日々を過ごしているとある時、俺は意外な能力が身についていることに気が付いた。

それはリーダーシップだ。

これに近い能力としてマネジメントがあるが、これは人材に加え資材や資金も含まれる。

俺は何時誰を憑依させるかを考え続けたおかげで、現実でも、こうした能力をもっているなら、この人にはこれをやらせた方が良いなとか、1時間にこれくらいの量をこなすなら、この人とこの人はここを担当してもらった方が良いなといった人材配置が上手くなっていた。

そのお陰で、集団で行う卒業研究は俺のチームは参考文献の数が全チームの中で一番だった。

このリーダーシップ、就活の時にとても言いたかったが、獲得した経緯が説明できない為(人格術に触れる為)とても悔しかった。

他にも有用な技術は大抵人格術をかませて取得していた為、その技術は殆どが就活で説明できなかった。

人格術をかませると、前述した説明が最低限必要になる為時間がいくらあっても足らないし、抑々理解を超える技術なため、ヤバい奴という印象しか残らない。

逆に人格術をかませなくても説明できる技術にしたって、剣術や暗示系、エンパスといった普通に今の時代必須ではない(と思われている)技術が殆ど(剣術は普通に必要ないの)で、自身の強みはフェアから習ったコミュニケーションくらいだった。

シェンスやモルテの思考も説明するには人格術をかます。

人格術なしで説明できるが、そうするとやっぱり面接時間が足りない。

ラーナやセイ、イプノの心理誘導にしてもそれを聞かされる面接官からすれば物騒この上ないから、上手く印象を和らげる言葉選びで言わなければだめだ。

しかし、この誘導の根幹は人を騙す、人の思考を強制的に書き換えるといった物騒なものだからどう和らげでも恐怖を感じるだろうし、抑々ブアメードの根幹のような技術で生命倫理を普通に無視している為、就活では使えない。

俺は就活で実質手詰まり状態だった。

なので、専門学校の実習先から働かないか?と言われた時は、本当についていると思ったものだ。

こうして俺は物心ついてから専門学校卒業までを過ごしたのだ。

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