見出し画像

天使たちとの最終戦線(二章、大海)



俺は専門学校を卒業してから、普通に働き始めた。

そうして普通に働き始めると、俺はどんどん体力があふれ出るような感覚に襲われた。

物心ついた頃はまるで体中に重りでもつけたように、体が鉛のように重くなっていったのだが、社会に出て一人で出来る範囲が増えてから俺は、昔より格段に生き易いと感じるようになっていた。

小中学校の頃は子供ながらにこの思考はおかしい、ここまで分かっているのは周囲から見てヤバいというのを無意識に意識し、周囲の見えている世界の広さに合わせて自分を偽り続けていたが、大人になってからはそれも必要なくなった。

何故なら大人なのだから。

これからはどれだけ知性を見せても大丈夫。

小学生が大人に頭が悪いと言うのと大人が大人に頭が悪いと言うのは説得力が違う。

つまり、俺は初めて自分の身の丈に合った身分を手に入れることが出来たのだ。

俺は勝手に学校と社会を対極な世界だと思っている。

そして学校が楽しいと感じる人間は社会では生きづらいと感じるだろうとこれまた勝手に思っている。

それは何故か。

学校は学校という世界しか知らない教師の言うことを聞いていれば生きていける世界だ。

逆に教師の言うことを聞かないととても生きづらい。

つまり、絶対的な一つの指針が全ての世界。

しかし、社会という大海では一つの事柄に対しても無数の指針があり、人の数だけ答えがある。

一つの定められた正解を出さなければ正解にならない学校と、自分なりの答えが正解の社会。

正解は一つじゃない。

社会という世界は全て正解だしすべて違うということがままある。

しかし学校は正解は一つでそれ以外はすべて違う。

学校はそんな相手の意を汲んだ一つの正解をまぐれでもいいから当てた者が優秀と言われ、それが少なくとも高校まで続く。(我が国では大学すらもこの傾向が強いが。)

しかし、社会に出てある程度自分の意思で生きていくにはこのスタンスは非常に邪魔になる。

何故ならこのスタンスは相手の顔色を確認しないと動けないスタンスだからだ。

何をやるにしても、まず相手はどうする?

この人がこれをしたらこうしよう。

この人が動いてから動こう。

このスタンス。

全員が取ったら誰も動かないという致命的な欠点がある。

いざという時、困っている人に誰も手を差し伸べないように。

この欠点。

これは社会を成長させるには致命的な部分だが、土地の人間に下手なことをさせないためには非常に有効な教育と言えよう。

こっち(統治者)がやることをちょこまか邪魔されない為に、こちらの言う事に歯向かわない奴隷たちを作り、手足として使うには非常に有効な教育だ。

お前たちは俺の言われたことだけやってりゃいいんだよ。

ただ単に国民を労働力としてしか見ていないならとてもしっくりくるスタンスだ。

人としてではなく生産性を高めるだけの道具。

工場で昼夜問わず動き続ける機械を想像してもらうと分かり易い。

そういう風に扱うなら確かに下手なことをされれば困るだろう。

指示にないことをして、納期が遅れるような行動を機械を扱う者は望んでいないのだから。

俺にとって学校はそういう印象だ。

しかし、社会は違う。

社会とはそれぞれの強みや個性、能力を持った人たちが良いと思うことを積み重ねて良くないと思うことをルールで統制し共存を図っていく。

つまり同じ箱に違う答えを求める者達が存在しているのが社会なのだ。

そうした違う答えを求める者達が考えをすり合わせて生きていくのが世界であり、社会だと俺は勝手に思っている。

だから、社会では考えが同じであるということを強制しない。

別に同じなら同じでいいし違うなら違くてもいい。

つまり、考えが違う=排除という世界は俺にとってとても生きづらい。

俺はあんな窮屈な場所で楽しめるなんて頭がおかしいんじゃないのかと割と本気で勝手に思っている。

同時に、たった一つの視点だけでこんなにのめりこんでしまうなら複数の視点を提示した途端脳がオーバーロードして会話できなくなるだろうなと思っていた。

例えば俺の人格術。

これを理解するには五つの視点が必要になる。

エンパスの発動形態というスピリチュアル要素を含む超能力の一種という視点。

古典的条件付けから見る学習法という視点。

認知行動療法から見る心理療法的視点。

イマジナリーフレンドという児童期における現象という視点。

解離性同一性障害の人格交代という障害的視点。

俺はこの五つの視点を感覚と直感で認識していた。

ここでは視点と銘打っているが、実のところ、この全てが後付けの設定のようなものなのだ。

どういうことかというと、エンパスという言葉を理解する前から何となく感覚でやっていて、後からそれがエンパス能力だと分かったということだ。

学問なき経験は経験なき学問に勝る。

俺はこれを地で行っていた。

俺が学生時代、学校の勉強に身が入らなかったのはこれが影響しているのかもしれない。

いくら理想的な概念だとしても、それが現実で通用しなければ意味がない。

超実践派。

俺は勝手に自分をそう括っている。

そして学校とは社会に出た後に通用する為の準備。

それが、対極にあっちゃ駄目だろ。

俺は学校で勉強することがどうしても出来なかった。

だから独学で将来社会に出た時に有益になるであろう技術を学問そっちのけで磨いたのだ。

結果は俺にとって大成功だった。

社会的に見れば偏差値40の大学全落ちの専門学校卒という高卒とほぼ変わらない、しかも専門卒と言っても専門的と言われる技術は役に立つかちょっと疑わしい精神保健福祉士という国家資格。

業務独占ではなく名称独占という国家資格にしてはちょっとはてなマークな資格。

しかし、この肩書きを存分に光らせることが出来る能力を俺は持っている。

それがフェアから教わった対話もとい会話術。

どんな相手にも一定の効果を発揮する言葉を用い、イプノやセイの扱う洗脳や暗示の技術の考え方の基礎を使って精神的苦痛を和らげると言った使用方法に留める。

人を殺す剣術から人を守る剣道が生まれたように、多くの人を苦しめる技術を多くの人を救う技術に昇華する。

これは自分への挑戦だ。

独りよがりではない誰もが認める俺の専売特許。

これを作ることが出来れば俺は何処に行ってもやっていける。

俺はこの時どんな技術も使い手の在り方が善と悪を決めるのだろうなと勝手に感じた。

唐突だがここで多くの人がよく分かっていない暗示・洗脳・催眠の特徴を説明しておきたい。

この世界の大多数の人が洗脳と暗示の区別がついていない為、説明させてもらうと洗脳とは脳を洗うという文字から想像出来るように根本的な人格や思考形態をまっさらにする行為を言う。

つまり、その人を消すのだ。

その人の個性、考え方、感情を全て洗い流し、ただの人間という生物の状態にする技術。

それが洗脳。

他の誰でもない、人類という種である人間という生物という状態にする。

それが洗脳なのだ。

間違ってもその人の個性が残ることはない。

感情が残ることはない。

それが残るのなら洗脳ではない。

本当の洗脳はガチのフィクションの領域なのだ。

有名な言葉で教育は洗脳だという言葉があるが、あれは俺からすると何を言っているんだ?と思う。

コミュニケーションが上手くなりたいなら銃の扱い方を覚えろ!というくらい意味が分からない。

教育は洗脳だと言う人の教育とはただの条件付けだ。

ひたすら同じ行為を繰り返し行わせることで、その行為がその体にとって自然になっていく。

これは条件付けの強化を促したものに過ぎない。

そう、俺が人格術の仕組みにも採用した条件付け。

結局は人間も動物ということだ。

理論的に裏付けされた反応の習得方法。

漢字を繰り返し書くことで自然に書くことが出来るようになる。

日常的に使う四則計算は大人になってからも使い続けることが出来る。

逆に古典や理科等大人になってからの仕事によっては使うか使わないかが分かれる知識は次第に思い出せなくなっていく。

これを弱化という。

まぁ、理想的な教育とは自発的に条件付けしていくものなのだろうが今回の主題はそこじゃない。

教育は間違っても洗脳じゃない。

教育なのだ。

しっかりと理論的根拠のある反応習得方法。

洗脳は俺でも再現は出来なかった。

高校生の頃、物理的にクソ(毒父親)を殺す方法から精神的に殺す方法を模索していた俺でも天使の人格消去(しきれなかったが)は再現出来なかった。

それに近いが似て非なるものとしてあるのが精神破壊。

これは相手の精神状態に致命的且つ回復不能なダメージを与えるものだ。

これのやり方は簡単。

相手を絶対に許さないこと。

対象となる相手が年老いて命尽きるその日まで感じる感情全てを否定する。

お前の残りの人生全てで今までの罪を贖え。

これを体現するのだ。

毎日、毎月、毎年コツコツとじわじわと楽しくもない苦痛な日々を相手に体感させ自覚させ続ける。

相手の取り巻く環境を、相手が最悪という捉え方が出来るようにいじり続け精神を病ませる。

高校生の頃の俺はこうしたことに本気で取り組むほどに狂い、心を荒ませていた。

結果クソは、神様どうかわたしを殺してくださいと紙に書くほど精神的に追い込まれていった。

この技術はいわば精神障害者を作る技術ともいえよう。

思いっきり生命倫理に反した技術。

それが洗脳(人格消去)であり人格破壊だ。

しかし俺はその紙を見ても自分が悪いことをしている気分には当時全くならなかった。

寧ろ、喜ばしかったのを覚えている。

確実に効いている。

俺はそのままクソが死ぬのを願いながら様々な精神を病ませる方法を試し続けた。

俺のこの行為。

普通なら洗脳だと思うだろうが実は暗示なのだ。

暗に示すと書いて暗示。

直接的にバカとかアホとか死ねといった暴言は吐かない。

ただ人の考え方が悪化する条件を整え、整備し続けるだけ。

ブラック企業が分かり易いか。

相手の無意識に働き続けるだけ。

暗示に関するもので有名なのがHolesISpiny「催眠の可能性・・・暗示は人を殺せるか」1960というものだろう。

通称ブアメードの血、ブアメードの水滴実験と呼ばれるものだ。

この呼び名はこの実験の被験者の囚人の名から取ったものだという噂だが、真偽は分からない。

そして水滴実験という呼び名から想像出来るようにこの実験には水滴を使う。

実験の主題は題名にもあるように暗示は人を殺せるのか。

正確には思い込みで人は死ぬのか。

要するにノーシーボ効果の可能性を検証したものだ。

実験法はいたって簡単。

ブアメードという名前の死刑囚に目隠しをする。

そして、そのブアメードには事前情報として「人間は体重の約10%の血液を失うと死に至る(正確には8%)。」と伝えておく。

そして目隠しした状態で耳元で血液が滴り落ちる音を聞かせながら、体に痛みを与える。(この血液は正確にはただの水で体の痛みも実際にはケガなどさせてはいないとされている。)

そして、定期的に血液が減っていっていると報告する。

この有名な実験。都市伝説のような扱いで真偽が定かではないが、ただ知っている者が多いのは事実だ。

俺はこの都市伝説実験を繰り返すかの如く、クソに苦痛を与え続けた。

結果、クソは俺と目が合うとおびえるようになっていった。

俺はろくでもないとはいえ自分の親が自分におびえるようになり、何とも言えない気持ちになっていった。

大幅に話がそれてしまったように思うが最後が催眠だ。

催眠とは眠りを催すと書くことから相手の思考能力を奪う行為である。

催眠術とは相手をそうした状態にさせる技術の総称である。

分かり易く言うと、相手の意識をぼーっとさせる技術。

洗脳するにしても暗示を与えるにしても催眠をかませるとやりやすいだろう。

よく未来が視えるとか占いを生業にしている者の殆どが、超能力ではなくこうした技術を駆使して相手に分かっていると思い込ませている。

ぼーっとしている時に与えられた明確な思考形態にそうだ!と思い込むように脳は出来ている。

正確には支配される。

その情報で頭の中がいっぱいになり、それが全てだと思い込む。

そしてそれ以外が考えられなくなる。

俺は普通の人みたいにぼーっと生きていない(生きていけなかった)のでこうした占いには引っかからない。

寧ろ占い師の予想を超えていく。

設定のおかしさをついていく。

俺の中にいるフェアは占い師のガバガバな設定の当ててやった的な雰囲気を見ると、舌戦をしたくてうずうずし始める。(いい性格してるよ。ホント。)

例えば、大体の人は厄年に何かあったか聞けば大抵何かある。

それはその人固有の問題ではなく、人間という生物全般に訪れる老いを元にあてずっぽうで発言したものに過ぎないのだから。

俺は占いを信じる人は頭が悪いと思っている。

そしてその頭の悪さはこの時代に生きるには致命的な欠点だと思っている。

俺はこうした頭の悪い人は他のどんな特徴が優れていたとしても近くに置いておきたくない。

何故なら無能だからだ。

こうした頭の悪さはちょっと自分から知識を取りに行くだけで簡単に直せる。

よく宗教で○○神が~とか、神と繋がっているとか言ってくる人がいるが俺はこれに対して、今すぐ天変地異を起こせるなら信じてやるよ、とかなりの上から目線で思っている。

何故なら俺は知ってしまっているからだ。

天変地異を起こせる存在を。

そして少し前まで繋がっていた。

気に食わないことがあると雷を落とすドラーク。

山の5合目から上を吹っ飛ばすグラント。

彼女たちと同じことが出来るなら信じてもいい。

俺は社会という大海に出て年を重ねれば重ねるほど自分の価値観と世間の価値観が如何にずれているのかを本当に多くの場面で思い知ることになった。

生まれてくる時代を間違えた気がする。

俺の頭には度々こうした言葉がよぎった。

しかし同時に、未来の世界を生きている(自分はタイムスリップしてきたんだ)と思えば幾分か楽しいかとも思った。

・・・でも・・・なんかこの世の中はしっくりこないんだ・・・分かってくれるよね・・・ここ・・・気持ち悪くない?

どこかのラスボスを彷彿とさせる言葉に俺は当時とても共感した。

俺は今に至るまで本当に(精神的にも物理的にも)余裕がない生活を送っていたが、就職してからは精神的余裕が少しずつではあるが出てきた為、恋愛や結婚に対するスタンスを真剣に考え始めた。

何故なら、今後に人生でどのように生きるのかを決めるのには避けられない事象だからだ。

必ず人生のどこかで説明責任が発生する事象。

答えは直ぐに出た。

生涯を共にしてもいいと思える相手以外とは親しくならない、というスタンスだ。

何故このスタンスなのかこれから詳しく説明していこう。

まず王道ともいえる異性との関係性の変遷は大きく分けて恋愛→結婚→子育て(ここは今の時代分かれる)となる。

まず恋愛。

初対面からこの恋愛に行く時点で九割程お互い一緒にいても苦にならない、お互いの価値観が合う等、他の異性とは違った部分が感じられるものだ。

そして異性関係の中で最も主観による問題が多いのがここである。

メールの返信が遅い、態度がそっけない、他の異性と一緒にいるのを見た・・・と精神的に不安定になるのが多いのがこの恋愛だ。

そして、さらに問題なのが、こうした問題が当事者間で終わらないことだ。

例えるなら家族のあの子とは最近どうなの?とかあの人は姉ちゃんだよとか親戚のおばさんがあの人は止めた方が良いとかとりあえず求めるメイン装備に付随してくるオプション装備が多すぎるのだ。

この懸念は小学校の頃から変わらなかった。

気になる人の取り巻き、それを冷やかすモブたち・・・得られるメリットに比べて背負うデメリットが多すぎる。

気になる人と仲良くなるにはセットで気になる人と仲の良い人たちとも仲良くならないといけない。

仲良くなれなくても仲が悪くはないという体裁を保たなければならない。

人間嫌いの俺にとってこれほどの苦痛は中々だった。

加えて俺はエンパス持ちなので、精神性が終わってるやつを瞬時に見抜くことが出来る為、気になる人の取り巻きが一人でも程度が低いとこれから起こる出来事でどんな被害が発生するのか想像が出来てしまうのだ。

かの大震災での教師陣の対応を推測できたように。

つまり、人と関わることでデメリットを被ることが多い俺にとって恋愛は別に興味がないわけじゃないけど、被害が確定している事柄を行う気にはならないという、ネズミ講と同じ存在にしか感じられないのだ。

まぁ、大抵の人々はネズミ講だと分かっていてもやってしまうのだが。

でも恋愛をせずにはいられない人の気持ちは分からなくはない。

嘘をつけと思うだろうがこれは本当に分からなくはない。

何故なら俺にもそういう状態に成った経験があるからだ。

この恋愛をせずにはいられない人たちはどうしようもない孤独感がある。

要するに寂しいのだ。

一人で寂しいのだ。

心の奥深くで関わり合える相手が欲しくてたまらないのだ。

依存できる相手。

友達よりも深く長く一緒に居られる相手。

依存出来て一人じゃないと思える時間を感じていたい。

そうした存在がまるで麻薬のようにほしくなる。

俺の場合は人格術でこの中毒性を(多くの人格と関わり合うことで)中和できたが、普通の人は勿論人格術を使えないので存在している人に頼るしかない。

だから恋愛するのだ。

この孤独感。

大抵の人が実際の人と気持ちを同じくしなければ癒すことが出来ないと勝手に思っているだろうが、正確にはこの孤独感を感じる本人を騙すことが出来れば補えるのだ。

要するに問題なのは、実際に人と関わり合っているかではなく、人と関わり合うことで生まれる感情を生むことが出来るか。

疑似的にでも生むことが出来れば人と関わらなくても孤独感は消える。

漫画やアニメの登場人物を見て心が満たされるように、心を満たす出来事が定期的にあれば問題はないのだ。

それは人格術で補えた俺が証明している。

物理的には存在しない人格という概念によって自分を騙し虚構の愛を自身に与え続けた俺が精神の均衡を保っていられるのはそういう事なのだろう。

いつでも新鮮な脳をお届け。

どこかの天才呪術師かのような仕組みによって俺の心の均衡は守られていた。

心の自給自足とでも言おうか。

大分話がそれてしまったが、俺にとって恋愛は人格術を作るより無理難題なのだ。

普通の人は意味が分からないだろうが実際そうなのだ。

恋愛をするより超能力を作る方が簡単。

俺にとってはそうなのだ。

俺はこの人格術の持つ補完性によって恋愛で生じるデメリットを全て除くことに成功したのだ。

同時に恋愛をするメリットも失ったが。

しかし、恋愛をしないと言っても中には結婚から攻めてくる女性がいるだろう。

恋愛と結婚は別物。

俺はあらゆる場面でその言葉を既婚女性の口から聞いてきた。

なので俺は結婚の有無のスタンスも決めた。

スタンスはしない、ということになった。

理由はとても明確。

金が無い。

今現在俺は自身の奨学金(正確には学生ローン)200万、後々来るであろう4630万(うろ覚え)の住宅ローン(これは親がまだ死んでいない為来ていない。)等を月収入20万弱で回している。

それも貯金100前後で。

しかも、確定支出事項として親が俺の学費を生み出す為に作った銀行の借入金20万、妹の大学入学金100万~150万前後を捌かなければならない。

クソが子供の金を使って転職を繰り返した余波はこのように俺に来たのだ。

つまり俺は月収入20万弱で奨学金200万、借入20万、妹の学費100万~150万、住宅ローン4630万を消化しなければならないのだ。

社会に出た時点でこれほどの借金を追う人生、結婚を視野に入れていればさぞ絶望だっただろうが、幸い俺はまだ結婚していない。

今の時代、男女の家庭内における役割の不平等は大分上っ面で(女性だけが労働という項目を増やす形で)改善されたが、それでも人々の無意識には男性の稼ぎは女性より多くあってほしいという願望が残っている。

そして俺も女性なら、相手の男性の稼ぎは少なくとも自分より多くあってほしいし、少しは養ってほしいと思う。

そうした背景で俺を見ればとんでもなく劣悪な物件であることが一目瞭然だ。

年収は300万前後、住む場所は実家(しかもそのローンで金が出ていく)。

実家を売ればいいじゃないかという意見もあるだろうがこの実家の頭金は祖父母が将来一緒に住むことを目的として出してくれたもので、売るという選択肢はまずない(売るとなると祖父母の出したお金をみすみす捨てるのと同じ&祖父母の住む家が無くなる為)。

ここまで見ると、毒親の有害性が良く分かるだろう。

どれだけ周囲の人々の未来を食いつぶして生きているのか。

どれだけ子供の人生を食らって生きているのか。

有害な無能を放置するのがどれだけ危険か。

毒親育ちは形に違いこそあれど、概ねこれ程(基本それ以上)の悪条件を生まれた時から背負って生きているのだ。

しかもこの条件は自分ではどうしようもないものばかり。

だから、毒親育ちは普通親育ちより人間的には優れているのだ。(ここだけは何としても断言させてもらいたい。)

彼らはまるで戦争経験者のような、技術や才能という言葉では表現できないような人間的な強さがある。

次元が違う。

普通親育ちとは雲泥の差。

盛大に話がそれてしまったように思うが、俺は結婚に対してどうしても前向きに考えることが出来なかった。

はっきり言って論外だ。

何故なら、自分の最愛の人の財産や権利が毒父に食いつぶされる可能性が大いにあるからだ。

実際、母の貯金は底をつき、俺の貯金も一時は使い果たし、妹の貯金(祖父母からのお年玉を学費捻出の為に貯めていた口座)ですらも半分使い果たしたほどだ。

その時に母は俺に、あなたの貯金はもしかしたら全ては元に戻せないかもしれないと言われた時はとても悲しくなった。

母として子供にこうしたことを伝えなければいけない状況にあることを考えると、相当な感情を与えてしまっていると、子供ながらに自身の存在価値を考え直したほどだ。

同時にそうした状況を作り出した毒父に殺意を再燃させたのを覚えている。

度々話がそれるが、こうした背景がある為、俺は結婚・恋愛等は別次元の話(フィクション)だと思って生きることにした。

そして俺は自身の状況を再認識した時苦笑いをした。

こりゃ、結婚出来ねーわ笑。

同時に少し安堵したのを覚えている。

これで堂々と独身貴族を謳歌できる。

これだけの悪条件を肯定的に見ることなど不可能に近い。

何せ俺ですら、ありえないと思っているのだから。

まぁ、こうした背景をこの時代に生きる人間に強いる社会にも責任はあるだろう。

俺は勝手に有能な人間ムーブを心の中でし、有能な人間を潰す仕組みを放置する国なんて滅んでしまえばいい、有能な人間を蔑ろにする社会など、誰が助けてやるものか、力を貸してくれと言われても貸すものか、と勝手に謎の優越感に浸り、生きることにした。

きっと社会や世界はこうした人の一時の感情による選択が大きな影響を与えて悪い方悪い方へと行っているのだろうなと勝手に思った。

こうした選択を有能な人に歴史の節目節目でさせてきた無能によって社会は悪くなり、それでも何とか保とうとする別の有能な人によって何とか社会もとい世界は続いていく。

それが時間であり時代である。

さて、自身のスタンスも決まったことで次に考慮すべきなのは隣の芝生は青く見える問題だ。

要するに、周囲の人間が恋愛をしたり結婚をしたりする光景を年を重ねて見せつけられる(実際には見せつけてもいないし、脳が勝手にそう感じているだけなのだが)のに心が耐えられるかである。

俺はこのスタンスを決めた時、自分がどう感じるか分からなかったが、結果はある日突然出た。

それは友人が結婚報告と子供が出来た報告を同時にしてきた時だ。

俺はこの報告を受けた時、少しほっとした。

俺の友人は普通親育ちで収入も俺よりある為、子供は俺のような苦労はないからだ。

加えて、この俺の数少ない友人には大分苦労を掛けたように思う。

俺は普通の人でも少し不安になる程、人とのかかわりを必要としない(寧ろ邪魔と感じる)為、この友人には色々と孤独感を与えたように思う。

結婚して子供が出来たということは、ある一定期間意識を割かなければいけない事柄に取り組まなければならないことを示している。

ということは、悪く言えばほっといても大丈夫ということだ。

俺は現実にいる人間との関係より人格たちとの関係を重要視し、人格たちとの関係に意識を割いていた為、現実の人間との交流をしている余裕がなかったのだ。

あらゆる修練に学習。

中学生から始めて専門を卒業するまであらゆる技術を極めた。

そして友人が結婚をしたことを嬉々として話していたのを聞いて、やっぱり結婚は嬉しいものなんだなと改めて普通を再認識した。

残念ながら、俺は結婚は精神的に不安定な能力的に低い者を抱えるデメリットしかない契約だと思っているが、普通はそうではないらしい。

寧ろ結婚は夢の一つとしても挙げられるくらい、喜ばしい出来事らしい。

唐突だが、俺は人間の知性はある一定の水準以上は上がらないと思っている。

何故か。

理由は歴史は繰り返しているからだ。

不倫は良くない。

人殺しは良くない。

戦争は良くない。

悪口は良くない。

知性の統制によって防ぐことが出来るあらゆる良くないを人類は繰り返してきた。

ダメと言ってもやってしまう。

大体の人はそう見るだろう。

しかし俺は、ダメと言っても止められないと見る。

人間の理性で制限できるボーダーはそこなんだと示されているかのように同じ失敗を繰り返す。

同じ失敗を繰り返すということは気を付けても直せないということ。

つまり、その人間にとってはその失敗はボーダーの一つだと俺は考えている。

上限なのだ。

あ、限界なのね。

俺はすぐさまそう考えを切り替えて人を判断してきた。

当初俺は、多分嫌われる態度だろうなと思っていたが、何故か少し雑に対応している方が相手には笑顔が増えた。

逆に形式っぽい態度を取り続けていると人は苦しそうな顔をする。

理由はよく分かる。

こうした態度を取られると人は窮屈に感じるのだ。

貴方と一緒にいると息が詰まる。

こう言われたことがある人は、大体お堅い人なのだ。

このスタンスは相手にジワジワダメージを与えるには良いスタンスだ。

絶対に仲良くなりたくない人に対して行うのがおすすめだ。

さて、次に問題になるのが同僚や家族から言われる結婚しないんですか?問題だ。

この問題は楽しくおひとり様を満喫している時、不意に訪れる為非常に煩わしい。

俺はこの問題に対して実に力技的な解決法を打ち出した。

それは、あの人は結婚ってガラじゃないよね。だ。

もう少し分かり易く言うと、あの人は世界が違うよね、といった認識を周囲に植え付けることだ。

俺はどんな美人とも普通に会話こそするも、決して距離は詰めず、目に見えない壁を相手が感じるスタンスを取り続けた。

しかし、これは独身女性に限った。

既婚女性には普通に会話を行った。(理由はもう結婚しているから。)

そして、自身の信条として平等とかぬかす奴には誰にも優しくしないというスタンスを取ることにした。

どんなに優秀な人でも優遇しない。

どんなに美人でもブスと同じ対応をする。

様々な上下関係や区別を表す言葉がある以上、この世界に人間同士での差は確実にあるのに平等という甘い言葉や幻想をぬかす奴はきっと下の者の気持ちを知らない奴だ。

ようこそ、平等の世界へ。

不当に扱われる、正当に評価されない、実際より低く見積もられる世界でなお平等と言えるなら本物の心意気だ。

俺は男でありながら、殆どの女性が好きではなかった。

正確に言うと、集団でいじめる女性や心のさもしい女性。

どんな美人でも精神性が終わっているなら、俺はブスの側につく。

理由は単純。

気に食わないから。

元々の俺はこんな性格じゃなかったが、まだ天使と会話できる時代、フェアがこうした考えの片鱗をよく見せていた為、うつってしまった。

それに、プロイビー、ヴェール、ジョナルタ、ノテルナ、クオーレがそうした女性を見る度よく「何、あの女?」「むかつく」「わざとらしい」「調子に乗ってんじゃないわよ」と、湯水のように暴言を吐いていた。

また、グラント、タッソ、ヴォルティ、シントス、シュルケル、グラヴィーネは「ま、まぁいいんじゃない?本人の自由でしょ?笑」と(何がいいのかは分からないが)言ってはいたものの、その笑顔は引きつっていた。

本当に有能ならいつ如何なる時も如何なる場所でも如何なる条件でも生きていける。

フェアはよくこうした暴論を言っていた。

本当に頭がいいなら、どんな学校に入っても学歴といった肩書きで左右されることもないし、どんな未曽有の事象にも対処法を編み出せる。

フェアは人間が有能という言葉をあまりにも軽薄に使うことに度々こうした暴論を言うことで愚痴り憂さ晴らしをしていたのだ。

そうした精神性がうつっていることに俺は少し、苦笑いを浮かべた。

意外と俺の人生に影響を与えてんじゃん。

俺は自身の一挙手一投足に天使の癖を見た時、天使の偉大さと懐かしさを感じた。

最近俺は自分より学歴が高い人が何らかの犯罪をして不幸になっている姿を見て、学歴は高い方が良いのか低い方が良いのか少し疑問に思った。

勿論学歴は高い方が良いし、この問題の本質は学歴の高い低いが問題ではないし、そもそも求める幸せの形によって必要になる学歴は異なることは直ぐに分かったが、こと俺に関しては低い方が良いことが後になって分かった。

理由は簡単。

頭の悪い人が舐めてくれる。

この世の中、頭の悪い人と頭の良い人この2種類が確実に存在する。

そしてその2種類の内で確実に人数の割合が多いのが頭の悪い人だ。

つまり、人類の半数以上に敵意を持たれないということだ。

学歴が高いと何かと求められる基準や理想が高くなる。

そして、周囲の人は表では凄いねと言いつつも、気持ちの良くない感情を抱える。

俺はエンパス持ちなので仮に学歴が高いとこうした感情を感じながら人と接することになる。

だが学歴が低いと、大抵の人は気分がいい。

こいつは俺より下だ、こいつは潰さなくて大丈夫。

俺も最初は学歴が高いことをうらやましいと思ったが、そういった人たちがたった一度の失敗でとんでもなく落ち込んでいるのを見たり、まるで奴隷かのように働いているのを見る(普通より出来ることが多いからその分働いているのだろう)と、生きるのが辛そうだなと思った。

同時に、人々の希望とか背負ったり(社会実現等)して人に振り回される人生ってまるで夢の奴隷だなと、ちょっとかわいそうなくらいその人の尊厳や権利が無視されているなと思った。

その点学歴が低いととても便利だ。

やっぱり腐っても天下の学歴様なので頭の良し悪しの判断基準として周囲は見てくれるし、頑張らなくてもサボっているではなく出来ないと判断してくれる。

競争社会で競争のレーンに端から居ないので変な注目もされない。

何かの手違いで頭いいよねと言われても、偏差値40を出せば根拠のある否定になるし、あ、勘違いか。と思ってもらえる。

いい湯だな。

なんでみんなそんな生きるのに頑張るんだろう?

出不精で面倒くさがりの俺にとって学歴は低い方が都合が良かったのだ。

専門学校時代、俺はこの世に説明できないものはないというくらいの知識量を手に入れる為本当にジャンル関係なく興味を持ったものや事柄を徹底的に調べていた。

その過程で専門的な知識から普段生きていく中では絶対に使わない知識を色々身に着けた。

例えば、武道によって呼吸の扱いは多少違うのだがこと剣道においては相手に攻撃を当てる瞬間は息を止める。

何故か。

正式な答えは分かっていないが俺は勝手に剣筋がぶれるからだと思っている。

普通の人は普段生活していて呼吸に意識を向けることが無いから分からないと思うが、人は運動をしていなくても微かに体が動いている。

正確には肩が上下運動をしている。

この人間の生命活動による止めることのできない微かな動きが剣を振る時にはとても邪魔になるのだ。

剣を振り相手に当てる瞬間と呼吸による微かな肩の上下運動がかぶると攻撃の威力が下がる。

だから剣道をやっている者は全員が無意識に攻撃を当てる時に息を止める。

これは剣道をやっている者からすると衣食住並みにその身に沁みついている習慣と言える。

息をする際に生じる微かな動きが剣の精度を下げ、剣筋をブレされ、当たる瞬間の威力を下げるのだ。

だから、よく漫画である剣での戦い中は剣を振っている時はずっと息を止めているのだ。

なので、昨今話題のバンバン呼吸を使う剣士たちを見ていると、とても違和感を覚える。

息は吸わずに止める。

吸ってしまうと、これまた体に力が入らない。

吐くのは一通り攻撃が終わった後。

間違っても呼吸をしながら移動はしない。

まぁ、慣れればかなり細かく小さく呼吸をしながらずっと攻め立てることも出来るようになるが、それはどれだけの呼吸の深さなら剣筋がぶれないか幾度も剣を振り続けないとつかめない感覚だ。

間違っても切りかかる寸前に深く息を吸ったり吐くことはしない。

俺が剣を必死に練習していた頃はこの息を止める行為が常態化してしまったことがあった。

どういうことかというと、普通は息を吸うのが体のメイン記憶(主軸)なのだが、俺は息を吸わないのが普通になってしまったのだ。

もう少し分かり易く言うと、気づいたら呼吸を止めていたのだ。

呼吸をしないで剣を振る時間が多すぎたのか、体は無意識に呼吸をしない状態を維持し始めたのだ。

少しやる気を出したり、目の前の物事に真剣に取り組もうとするとその行為とセットで体か勝手に息を止めていたのだ。

つまり、高い集中力を必要とする事柄を行おうとすると息を止めるよう体が条件付けされてしまったのだ。

俺はこれが自分の身に起きた時「マジかよ・・・笑。」と思ったが実際に体が学習している事実に向き合うしかなかった。

次に専門的な知識としては学習性無力感と回避型愛着スタイルというものだ。

何故この二つを挙げたのかというと、勿論身に覚えのある情報だからだ。

まず学習性無力感。

学習性無力感とは長期間回避不能なストレス環境に置かれた人は、その状況から逃れようとする行動すら行わなくなるというものである。

そう、俺の毒親家庭。

俺はこの学習性無力感の記述を見て、ちゃんと専門的な既定のようなものがあるんだと安心した。

専門的な規定があるということは俺の置かれている状況を分かってくれる人は一定数この世の中には存在している。

この学習性無力感はいわば人間の習性そのものだ。

人であれば誰でもなるし、そしてなることは避けられない事象。

何一つうまくいかなければ、人は誰でも努力することを辞めるし、だからと言ってその辞めた人が悪いとか怠惰ということはない。

こうした状況に置かれれば人間は誰だってこういうことをする。

心臓が止まれば人は死ぬといったものとある意味同じ内容。

誰だって病気になるし、怪我もする。

この世の摂理のようなものに俺は抗い、そして勝った。

おかしいのだ。

俺の人生はおかしい。

普通なら勝てない。

俺は勝ってもそれを誇る気にはさらさらならなかった。

俺は勝者と敗者両方が経験することを経験で来ている気がする。

人生の前半は敗者。

後半は勝者。

きっとこれはただの哀れみ。

もしくは幻想。

敗者からすればこんな屈辱的なことはない。

だから俺は勝者に対し、敗者と同じ条件で勝者と言えるならば本物だと訴え続ける。

一方で、己を顧みることで勝者になれる敗者や敗者という肩書を利用し勝者の権利を脅かす敗者は徹底的に矛盾を指摘し続け、見放し、排除する。

俺は勝手に自分の存在をそう位置づけることで自尊心を満たしていた。

大抵はどちらかに立つのだろうが、俺はどちらにも立たない。

二元性に囚われていては今までの人間と同じだ。

人類の歴史がこれからも続くのかは分からないが、もし続ける予定なら過去を超えていかなければならない。

さればこそ、従来の問題は克服していかなければならないし、既存の考え方に囚われていては人は進化できない。

人間は進化してここまで長く存在してきたのだから。

次が回避型愛着スタイル。

これの説明の前に、そもそもの愛着スタイルとは何か?について説明した方が良いだろう。

ということで愛着スタイルとはざっくり言うと他者との関係における基本的なスタンスのことを指す。

そしてこのスタンスは分類として主に四つの種類がある。

安定型・不安型・回避型・恐れ、回避型。

まずは安定型。

これは自分自身と相手を両方尊重できる、所謂普通の人がこれに当てはまる。

次が不安型。

これは自分がどうしたいかより、相手がどうするかというアダルトチルドレンのプリンスのようなもので、常に他人に見捨てられることを恐れているタイプ。

なので、自身を嫌っている人に対しては何とか気に入ってもらおうと媚び諂い、自分を好いてくれている人には過度に依存する、通称重いと言われるタイプ。

メンヘル、メンヘラと呼ばれる人の多くがここに当たるだろう。

蛇足だが、世の中の専門用語もとい知識にはこうした根幹の内容は同じだが解釈によって分類が違う言葉が多く存在するので覚えておいてほしい。(アダルトチルドレンのプリンス&不安型愛着スタイルしかり、イタコの憑依&解離性同一性障害の人格交代&イマジナリーフレンドしかり。)

次が俺が当てはまるであろう回避型。

これは文字通り他人との関りを積極的に避けるタイプ。

人間嫌い。

これがしっくりくるだろう。

俺はというかこのスタイルは他人と関わり合うことが強いストレスになるという、人と人は支え合ってという言葉を信じてきた人たちには到底理解しがたい特徴を持っている。

ある意味、人の理を超えたような特徴。

人間が火を扱い始め、他の動物を知恵を行使し協力して狩ることで生きてきた歴史を否定するかのような特徴。

ある意味、普通の人の枠を外れた特徴でこうした一種の合理性を否定する特徴は根本として理解されずらい。

働かずして生きる者の権利を保証する生活保護と同じように。

人は物事を理解するのに“しっくりくる”という感覚をとても重要視している。

非情な現実より優しい嘘に人間が騙されるのはこれが理由だ。

このしっくり感。

対人関係においてはとても厄介だ。

ここまで読んでいる人なら良く分かるだろうが、好きな人がいないという違和感を人は無視できない。

好きな人がいないが如何に事実だとしても、しっくりこなければ周囲は納得しない。

俺はこうした合理性を吹っ飛ばした特徴を幾つも持っている。

その為、他者と関わるにしてもある一定の深さ以上は仲良くなれない。

エンパスを隠し、人格術を隠し相手の知性もとい理解度に合わせて人と接することの何と疲れることか。

一人一人エンパスで相手の世界の広さを図り、相手の想定内の情報に絞り会話を行う。

いくら人格術があると言っても、それを引き出す俺には限界がある。

フェア、イプノ、グラント、ビランチ、シェンス、ネニアと相手によって表出する人格を変えるのはかなり骨が折れるのだ。

俺はこの頃から普通についてよく考えるようになっていった。(残りの恐れ、回避型という特徴は各々で見てほしい。)

ふつう、人はどう生きているのか。と。

どういうことかというと、人格術は何れ捨てなければいけないのではないか?ということだ。

人格術は俺が物心ついてからこの時間軸に至るまで、本当に色々な場面で力になってくれた。

しかし、俺は自分の人生を戦いのままで終わらせたくなかった。

恐らく、人格術は本当に凄い技術だろう。

だが、俺が現実の世界で普通に生きていくには邪魔になる。

俺は信じたくもない直感がこの時働いた。

天使たちのお陰でこの年まで生きてこれた。

天使たちがもとになって作られた人格術のお陰でこれだけのことが出来るようになった。

その天使たちとの思い出。

確かに物心ついてからの毒親家庭を生きるには必須の技術だった。

そしてこの人格術も様々な場所で活躍した。

しかし、毒親問題もある程度解決し、大人になり、頑張らなくてもそれなりに生きていけるようになった今。

この人格術は、この圧倒的な技術の数々は果たしてこれから先の時代を生きる上で本当に必須なのだろうか?

世界の人々を支配するわけでもないし、戦場で白兵戦をするわけでもない。

血で血を洗うような行為をすることもないこの世界で。

「・・・。」

俺は社会という大海を知れば知る程、人格術に言葉に言い表せない違和感と疑問を持ち始めた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?