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もしかしたら自分が間違っているかもしれない可能性があるとしたら。


15年人財育成の仕事をやってきて思うこと。いや50年シミズアキコという人間としてこの地球で暮らしてきて知ったこと。
それはとってもちっぽけなプライドを持ち続けていることで、どれほど自分を成長を停滞させ、望む人生を手に入れる機会を失っているかということを知らない人がなんとも大勢いること。

かくゆう私もその一人。

プライドがあるってかっこいい生き方やんって本気で思っていたし、自分の中にあるこだわりを持つことって大切だと信じてきた。

これまでいかに頑張ってきたか。
どれほど自分を殺して、相手に従ってきたか。(その逆も然り)

わたしは間違っていない!!!

と声をあげないにせよ(いや、ずいぶん大声で訴えていた)、思っていた。

強いて言えば、「どうせわたしが間違っているだろう」という自己肯定感低めな発言をしても、思っていても、じゃ、何がどう間違っているのか?という問いに正しくこたえられなかった。

なぜなら、

自分が間違っているかもしれない可能性に心を開かない

プライドがある

ことに気づいていなかったから。

思う通りにいかないすべての現実に対して、もしかしたら自分が間違っているかもしれない可能性があるとしたら、どんなことだろうか?

そんな問いがあることを知ったら、もともと自己肯定感低めで生きているのに、自分をさらに追い詰めて生きていけなくなるんじゃないかという恐怖さえ感じた。

恐怖を感じているときは愛を感じることはできない。

恐怖と愛は同時には選択できない。

という真理を知っていたおかげでパニックになることも精神衰弱することを免れたが、問いに対してこたえ続けるには忍耐力が必要だということを知った。

もう一度、もしかしたら自分が間違っているかもしれない可能性があるとしたら、どんなことだろうか?

自分の望まない結果が生じた時、特にこれを自分に問うようにしている。
すると、残念ながら(魂はもちろん喜び満ち溢れている)自分が間違っている可能性に値することがらがボロボロと出てくる。

自分の思いつきに対して不安から行動したこと。
自分が楽をしたいがために、その口実をつくったこと。
相手に好かれたいという一心でできないこと、興味がないことに対して意欲があるように見せかけたこと。

うだうだうだ。。。。

そんな自分を丁寧にひとつひとつ拾い上げて、あ~~~魂が未熟故に学ぶべきことがたくさんあるんだなぁ。とこの先に広がる道を感じてはため息がでる。

もしかしたら自分が間違っているかもしれない可能性に心を開くって自分の未熟さに気づくことでもある。
本来の魂が求めているこの世での体験をすること、そしてその体験から一つでも多く学ぶこと、何を学び、次にどう生かすかを知る機会のひとつやん。

よしよし、わたし、よく頑張っている!
そんな感じでひっくい自己肯定感を少しずつ高めていっているって、健気やん。

迷ったり、立ち止まったり、うまくいかなくて心が萎えそうな時ほど、この問いに答えてみて。きっと一筋の希望の光を見出すからさっ。






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