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まぼろしの五色不動【1】「大江戸五色不動」伝説の謎

(1)山手線に乗って

 駅の東西に壁のようにそびえる百貨店ビルの谷間――東京の北西に位置する池袋駅から山手線に乗って南に向かう。

 東京という巨大都市の一つの枠組みが「JR山手線」だ。東京、上野、池袋、新宿、渋谷、品川といった主要ターミナルタウンは軒並み山手線上にあるし、東京の鉄道路線図は山手線を中心に描かれている。また、地価なども含めて山手線の内側と外側では大きな違いが出てくる。江戸時代末には、江戸の内と外を分けるラインとして「朱引」というものがあったが、現代東京では、山手線……東京23区……東京都……首都圏、といった境界線が存在している。
 池袋駅から間もなく、目白駅に到着する。騒然とした池袋から一駅でありながら、落ち着いたセレブ的イメージも出てくる場所である。皇室ともゆかりの深い学習院大学、旧田中角栄邸のある目白は静かな街だ。

 さて、この目白と似た名前の駅が、東京の内側の境界線・山手線の上にもう一つある。そこまで山手線に乗り続けて南下していくとしよう。
 山手線は一駅ごとに風景を変える。学生街の高田馬場、アジアンの風流れる新大久保、風俗とショッピングの中心地新宿、南進する新宿圏に呑み込まれつつも雑然さを残す代々木、十代のファッションと明治神宮の対比鮮やかな原宿、流行と文化の発信地渋谷、そして高級文化街恵比寿と来て、ようやく目黒に到着する。
 江戸の境界線のぎりぎり外側にあり、江戸の住民の行楽地ともなっていた目黒の街。現在は山手線の駅があるだけでなく、地下鉄三田線・南北線と東急目黒線がつながるようになり、東京南西部の接続ポイントとなっている。

 さて、都の北西の目白、南西の目黒。名前が似ているだけではない。この二つに共通するのは、どちらにも「不動明王」があることだ。目黒不動は多くの人が知っているだろう。そして、目白不動も知名度は劣るものの、駅名と絡めて知られている。
「ところが、実は黒と白だけじゃなくて、赤・黄・青もあるんだよ」
と教えてくれたのは、東京出身の先輩だ。“五色戦隊フドーレンジャー”なんて特撮番組じゃないんだから、と一瞬思ったが、冗談でも何でもなく、目赤不動・目黄不動・目青不動というのもちゃんと存在しているらしい。ミステリーファンの先輩は目を輝かせて教えてくれたものだ。
「中井英夫の『虚無への供物』っていう作品は、この五色不動が重要なポイントとして登場してくるんだ。さらに、一説によると、これは東京を霊的に守護しているともいう。そういう話って好きだろ?」
 確かに、荒俣宏の『帝都物語』や加門七海の『大江戸魔法陣』などの著作を読み、また地理風水についての資料を探ってきた自分にとって、これは非常におもしろい話だ。

 それを聞いてから、私はライター稼業の合間を縫って――いや、他の資料を探したり、人と会ったりするついでに、五色不動について少しずつ調べ始めた。
 このように地名にまつわる話を調べるとき、最初のとっかかりは角川書店の『東京都地名大辞典』となる。これは全国四十七都道府県のそれぞれの地名の由来や地誌が詳細に記されており、資料価値が極めて高い。ここでは「五色不動」ではなく、「五不動」という項目があり、さらに「三不動」が参照されていた。

三不動
目黒不動(瀧泉寺)、目白不動(新長谷寺)、目赤不動(駒込南谷寺)
五不動
三不動に目青不動(世田谷太子堂教学院)、目黄不動(本所最勝寺)を加えたもの。目青不動は青山最勝寺、目黄不動は三ノ輪永久寺とも。

『東京都地名大辞典』

 どうやら、目黒・目白・目赤の三不動プラス目青・目黄で、目青・目黄はいくつかの説があるらしい。ここで私は最初の疑問にぶつかった。なぜ目青・目黄に複数の候補があるのか。
 こういうすっきりしないところがあると、徹底して調べたくなる厄介な性分で、それからは本格的にのめり込むことになる。まぼろしのようにとらえどころのない五色不動――まずはその由緒を探ってみなければなるまい。

(2)密教と天海僧正

 「江戸東京学」という学問がある。
 文字どおり、江戸から東京に至る地理・歴史・風俗について研究するもので、その総本山とも言えるのが、相撲で有名な両国にある「江戸東京博物館」だ。
 この江戸東京学の基本資料が『江戸東京学事典』(三省堂)である。近くの区立図書館にこの事典があったので、五色不動についてどう書いてあるか調べてみた。「宗教空間・名所」の中に約一ページにわたって紹介されている。ここでその項目の一部を引用してみよう。

五色とは青、黄、赤、白、黒で梵語でいうパンチャ・ヴァルナで地、水、火、風、空をあらわすとされる。徳川家光はこの五色をもって不動の目とし、東西南北中央の五方眼で江戸を守るため、五色不動を指定したとある。しかし、じっさいには方角や色は一致していない。もともと目白、目黒、目赤の三不動があり、それに目青、目黄の二不動を加えたとか、目白、目黒、目赤、目青に目黄を加えたとかいわれ、どれを本物とするかははっきりしない。

『江戸東京学事典』

 すこぶる曖昧な話である。「じっさいには方角や色は一致していない」というのだから、梵語の由来などはこじつけのようにも感じられる。そもそも、仏教の五色といえば、地=黄、水=青、火=赤、風=白、空=黒であって、『江戸東京学事典』の記述は順番が違い、ここでも詰めが少々甘い。いや、それよりも「あらわすとされる」と書いていながら、出典がないのはどういうわけか。

 これではらちがあかない。そこで、あちこちの図書館で東京の地誌にまつわる書籍などをあさって、そもそも五色不動とはどういう経緯で設置されたのかについて書かれた資料を掘り起こすことにした。
 東京は図書館については非常に充実している。まず、区立図書館が多数設置され、各区の中央図書館はかなりの蔵書数を誇る。杉並・世田谷・中野の中央図書館は特に役に立ってくれた。
 これに加えて、都立図書館が三館ある。三角形をした日比谷図書館は貸し出しもしてくれるし、広尾の中央図書館、立川の多摩図書館は貸し出しはないものの、必要な資料をコピーさせてくれる。また、この都立中央図書館の最上階には東京室があって、東京の郷土資料関係については大体ここで揃うようになっている。いや、逆にいえば、五色不動のようなマイナーなテーマについては、このような資料室でなければ見つからない文献も多かった。
 そして、それでも見つからなければ国会図書館という手がある。これまで日本で発行された書籍の大半はここで見つかるのだが、一つの資料を請求し、コピーしてもらうまで非常に時間がかかり、制限も多いので、最後の手段として使うしかない。

 こうして都内の図書館を駆けめぐり、少しずつ資料が増えていくにつれて、やはり謎は深まる一方だった。どの本もみんな違うことを言っているのである。諸説紛々、しかし決め手となるデータは出てこない。五色不動は確かにそこに見えているのに、実態はおぼろげなまぼろしのようにつかみどころがなかった。

 ただ、その中にはいくつかのキーワードも見つかり始めた。その一つは「天海僧正」である。

――これは江戸時代、三代将軍家光が天海僧正の建言によって、江戸の不動尊から五カ所を選び、天下太平を祈願したものである。(山本鉱太郎著『日本列島 なぞふしぎ旅・関東編』)

――なお、五色不動は三代将軍家光の時代に、寛永寺の僧である天海僧正が、江戸城の守りとして、その周囲に五色の不動を設けたといわれていて、宇宙の現象である地水火風空を青黄赤白黒の五色にあらわしたものであるという。(内田定夫著『江戸川区史跡散歩』学生社)

――平安京の例にならい、天海は江戸の町全体を、神道だけではなく仏教によっても守り固めることを意図したといわれる。それが江戸五色不動である。(宮元健次著『江戸の都市計画』講談社)

 江戸の霊的都市計画といった話が好きな人にはお馴染みの怪僧、それが天海だ。天海僧正とは何者か、そして天海僧正と五色不動の関係とは?

(3)怪僧天海

 この手の「江戸の霊的都市計画」なんて話になると、必ず登場するのが南光坊・天海(なんこうぼう てんかい)僧正という人物だ。この人物が江戸城の守護として、宇宙の象徴である五色の不動明王像を配置したというのだが、そもそも、天海とは何者なのだ?

 彼は、徳川幕府の三代、すなわち家康・秀忠・家光のブレーンとして活躍した僧侶である。おくりなは慈眼大師。今の埼玉県川越市の川越喜多院に住んだ。
 家康のブレーンとしては、天海ともう一人、金地院崇伝(こんちいん すうでん)が有名だが、崇伝のほうが具体的な政策担当だったのに対して、天海はもっぱら宗教的な分野を担当した。

 天海は天台宗のお坊さんだった。日本の仏教にもいろいろな宗派があってややこしいが、天台宗というのは多くの宗派のもとになっている。鎌倉時代の新仏教を開いた日蓮上人(日蓮宗)も親鸞上人(浄土真宗)も、もともと天台宗から出ているのである。
 本山は京都と滋賀の境にある比叡山延暦寺。開祖は、平安時代初めに活躍した伝教大師最澄だ。最澄の名前は、真言宗を開いた弘法大師空海とセットで出てくることが多い。その後の日本では、真言宗と天台宗の二大宗派とその分家が広まることになる。つまり、天海は、日本仏教の本流に属していたといえよう。

 しかし、天海自身は極めて謎が多い。まず、生まれからしてはっきりとわかっていない。一応、通説としては会津の葦名家に生まれたということになっている。しかし、生年にもいろいろな説があり、どれが本当やらわからない。家康よりは年上であることはたしかだが、はっきりとこの年生まれであるということはできない。
 ただ、亡くなったときのことははっきりとしている。寛永二十年、西暦でいえば一六四三年。家康も、その息子の秀忠も亡くなり、すでに三代将軍家光の時代となっている。この年、天海は超長寿をまっとうして亡くなった。逆算すると、通説でも百八歳ということになる。これだけでもすごいが、さらに長く、百三十五歳で亡くなったという説もある。化け物だ。

 天海にまつわる奇妙な説の一つに、「彼は実は明智光秀だった」というものがある。本能寺の変のあと、光秀は秀吉に敗れ、農民に討たれたというのが通説だ。ところが、光秀は実は比叡山に逃れ、その後家康のブレーンとなって豊臣家を倒すために尽力したのだというのである。これが本当ならおもしろいが、この真偽についてはまたの機会に取り上げることにしたい。

 とりあえず、ここでは「天海という江戸幕府創設期の宗教的ブレーンがいた」という事実を押さえておけばいいだろう。これは明らかな史実だ。

 この長寿の僧・天海は、家康から家光に至る三代にわたって重用された。その間、江戸の町並みを神秘的な理論にもとづいて構成していったのである――というのが天海・江戸霊的都市構想伝説である。

 江戸幕府の徳川将軍をまつる菩提寺は、江戸に二つある。上野・寛永寺と芝・増上寺だ。上野・寛永寺は江戸城から見て東北、つまり鬼門の方向にある。一方、芝・増上寺は反対の南西、つまり裏鬼門の方向だ。この配置を進言したのも天海だというのである。

 そして、五色不動である。
 天海は仕上げに江戸の市街を密教の力で封じることを忘れなかった。これが江戸五色不動だ。目黒不動(目黒区竜泉寺)、目赤不動(文京区南谷寺)、目白不動(豊島区金乗寺)、目青不動(世田谷区教学院最勝寺)、そして目黄不動(台東区永久寺、江戸川区最勝寺)とそろい、密教にいう五色、つまり地、水、火、風、空の宇宙構造元素をあらわしている。
 北に君臨する東照大権現から流れでる江戸の繁栄エネルギーが五色不動を伝わって江戸に万遍なく行きわたる。
(荒俣宏『風水先生 地相占術の驚異』集英社文庫)

 怪僧・天海が、江戸を大都市に変えるため、風水的な加工を施した。その一つが大江戸五色不動だ、というのが通説の一つとなっているわけである。
 しかし、これとはまるで違う由来説も数多く見つかった。まったくもって、五色不動は厄介な存在である。

(4)諸説紛々の由来説

 図書館でコピーしてきた資料の束を前に、私は途方に暮れるしかなかった。資料を見るたびにみんな違うことが書いてある。「五色不動とはどういう経緯でできたのか」という基本的な話さえも、まったくもって一致しないのだ。しかし、ただ「諸説ある」では話にならない。由来について書いた部分を抜き出して、まとめてみることにした。

 まず、先に引用した荒俣宏『風水先生』と内田定夫『江戸川区史跡散歩』では、天海僧正が計画者、五色は密教の地水火風空を表わしているという説である。荒俣氏の知名度もあって、現在はこの説が人口に膾炙していると言えるかもしれない。

 同じく天海僧正が計画者だが、最初に四色が作られ、江戸の四方に配置された、という説を唱える人もいる。

 また江戸開府のおり、天海僧正(慈眼)が台命により、江戸鎮護のため四方に不動の像をまつり、目の色をそれぞれ赤・黒・青・白としたのが地名となったという説もある。これに黄色をくわえて江戸の五色不動ができた。(本間信治『消えてゆく東京の地名』自由国民社)

 これは、中国の四神説の応用だろうか。東=青龍(青)、南=朱雀(赤)、西=白虎(白)、北=玄武(黒)で、中央は黄を配置するというのは、中国の陰陽五行説にのっとったものである。
 仏教か、中国陰陽五行説か、それとも風水か。五色不動というからにはやはり仏教起源と考えた方がよさそうだが、どれもこれももっともらしく見えてくる。

 桜井正信『歴史細見 東京江戸案内』と山本鉱太郎『日本列島 なぞふしぎ旅・関東編』は共通する説を述べている。おそらく発行年からして、山本氏の本が桜井氏の本を参照したのだと思われるが、五色不動は「三代将軍家光」が、江戸市中の主な不動尊から五つ選んだものだという。つまり、多くの不動の中から家光が選んだ、ということで、これまでの天海創設説とはかなり違っている。

 五色不動も、三代将軍家光が江戸の鎮護と天下太平を祈願して、江戸市中の主な不動尊を選んで江戸城を中心に周囲五つの方角に割り当てたものである。なお、この五色不動の位置を線で結んだ内側を、江戸の内とよぶ。(桜井正信『歴史細見 東京江戸案内』八坂書房)

 これは江戸時代、三代将軍家光が天海僧正の建言によって、江戸の不動尊から五カ所を選び、天下太平を祈願したものである。仏教では青は定色、黄は念色、赤は精進色、白は信色、黒は慧色として重要視しており、地名にも五色温泉、五色ヶ原、五色台、五色沼、五色塚といったように「五」という字はよく出てくる。
 この五色不動の位置を結んだ内側を江戸の内といい、五色不動めぐりは江戸六地蔵めぐりと並んで江戸っ子のレジャーとしてはやった。なかでもいまの学習院大学の近くにある目白不動が第一とされ、武士や庶民の信仰を集めた。(山本鉱太郎『日本列島 なぞふしぎ旅・関東編』)

 山本氏は、仏教五色についても新解釈を与えているのが注目される。これは曼荼羅における五色と如来の対応によるものであって、そういう解釈も不可能ではあるまい。
 ただ、桜井・山本両氏の説には弱みがある。それは、「五色不動の位置を線で結んだ内側を、江戸の内と呼ぶ」という解説だ。そもそも、江戸の内という言葉は、五色不動ではなく、その由来ははっきりしている。

 実は、江戸幕府が開かれてから長らく、「ここからここまでが江戸」という厳密な定義はなかった。江戸町奉行の支配地、といっても町人地だけに限定されるし、町人の住む区域が広がるとそれも広がっていった。その他にもいろいろな基準があったわけだが、十九世紀に入り、統一基準がないことに不満が持たれるようになった。
 文政元年(一八一八年)八月、といえばもう幕末に近いころである。目付・牧助右衛門が「御府内外境筋之儀」というお伺いを上げた。それは、「御府内(要するに、江戸の範囲)はどこなのか、という規定がないので困っている」という内容だ。
 その結果、十二月になって、老中・阿部正精が正式範囲を示した。この図の中には朱色で線が引かれていた。この赤線が「朱引」だ。この朱引の内側が「御府内」である、と老中阿部は明確に規定したのである。これによって「江戸」の範囲が確定した。
 明治維新のときには、その朱引の内側がほぼ「東京府」となったが、これは現在の二十三区よりかなり狭い。

 というわけで、この朱引内の範囲は五色不動とはまるで関係がない。五色不動が朱引き線上にあるならまだしも、すべてのポイントが無関係に並んでいることは、江戸朱引図を見れば一目瞭然となる。
 このような「江戸の内」と五色不動をこじつける記述から考えても、桜井・山本両氏の説は根拠が薄いといえよう。

 さて、最後にもう一つ、新たな説が見つかった。三代将軍家光も天海僧正も関係せず、何と八代将軍吉宗が民力休養のための場所を選定したのがきっかけというのだ。

 五色不動の起こりは、八代将軍吉宗が在職二九年の間、民力休養に心を用いて、享保年間に花見の場所など五か所を選定し、それぞれに不動尊の堂を建てたともいわれている。(伊藤栄洪・堀切康司『豊島区史跡散歩』学生社)

 果たしてどれが正しいのか、いや、そもそもこの中に正解はあるのか。
 結論から言おう。すべて間違いだったのである。

(5)つまり、江戸時代に五色不動はなかった!

 五色不動問題について、一般的な解説書を読めば読むほど頭は混乱してくるばかりである。その混乱に終止符を打つきっかけとなったのは、一つの文章だった。それは、岡本靖彦という人の書いた「五色不動存疑」という小論である。
 「五色不動存疑」という文章があるということ自体は調べ始めた当初からわかっていたのだが、そういう書名の本は見当たらなかった。だが、都立中央図書館で調べてみると、これは東京の地方史に関する機関誌に投稿された論文であることがわかり、ようやく読むことができたのである。

 有栖川宮公園の丘の上、ドイツ大使館の横手にある都立中央図書館は、一般に資料の貸し出しをしていない。すべてコピーを依頼するしかない。最近は一部自分でコピーできるようになったが、以前はすべてコピーカウンターに持っていき、コピーが仕上がるまで待たねばならなかった。
 混み合うコピーカウンターの前で一時間ばかり待たされた後、まだコピー機の熱も冷めていない「五色不動存疑」を受け取って、少し目を通しただけで、私は興奮を抑えきれなくなった。これこそ、決め手だ!
 公園の坂を下り、日比谷線広尾駅から乗り込んで、地下鉄の中で真新しいコピーを広げて、じっくり読んでみることにした。

 昭和五十年に発表されたこの文章は、それまでの五色不動についての諸説を根こそぎひっくり返すものだった。なんと、五色不動そのものが江戸時代には存在していなかったというのである。いかに怪僧天海だとて、江戸時代に存在しなかったものを創建するわけにはいくまい。
 これほど多くの文献に記されている五色不動が存在しなかった――コロンブスの卵どころではない大発見である。じっくりと読み進め、何度も読み返すうちに、これは紛れもなく真実だという確信が生まれてきた。

 本当はここで全文を転載したいくらいの内容なのだが、以下に概要をまとめてみよう。

 まず、簡単に現在の五色不動が紹介される。そして、江戸時代のタウンガイドブックである『江戸名所図会』に当たってみた岡本氏は、目黒・目白・目赤の三不動の記載を確認するも、それ以外の不動が見当たらないことを指摘する。『東都歳時記』にも、現在の目青・目黄不動についての記載はまったくない。
 次に調査されたのは嘉永から安政にかけての切絵図、つまり江戸の地図だ。ここにも目黒・目白・目赤はあるが、他の二つは存在しない。
 さらに、川柳も傍証としてあげられている。やはり目黒・目白・目赤についての川柳はあるが、目黄と目青はないというのである。
 こうして、岡本氏は目黄・目青は江戸時代になく、「五色不動」はなかった、と結論づけるのである。

兎に角『東都歳時記』の附録にあれだけ多数の観音、地蔵、弁天等の巡拝先が記されてゐるにも拘らず、不動尊に関しては何等記されてゐない。つまり六阿弥陀や六地蔵のやうに巡拝信仰の対象とはなつてゐなかつたといふことである。

 続けて、岡本氏は目青不動のある世田谷教学院からの手紙を紹介する。これによると、「江戸時代には五眼不動と呼ばれていた」「家光以前に目青・目黒・目白・目赤の四不動があり、後に目黄を加えた」などの説が披露されている。また、四色不動や五眼不動について記したとされる文献がいくつか紹介された。
 岡本氏はこれらの資料に当たった。『夏山雑談』という江戸時代の随筆は確かにあったが、この記述は疑わしい。『江戸砂子』に載っているという話だったが、記載は見つからなかった。結局、江戸時代には五色不動の存在を裏付ける資料はなかった。

 岡本氏はここで東京日日新聞明治十四年の記事を発見する。これは前年に目黄不動が新設され、横浜に目青不動が安置されることになったという記事だ。とすると、目黄不動・目青不動の出現は明治十三年以降ということになる。
 そして、明治四十四年の『東京年中行事』の記事では五色不動が確立されていることが判明するのである。明治四十四年といえば、明治の終わり。
 岡本氏は、五色不動は明治時代に完成したということを発見したのだ。

(6)五色不動を生み出した「何か」との対決

 五色不動が存在しないかもしれない――岡本靖彦氏の「五色不動存疑」は重要な視点を教えてくれた。だが、自分はそれで納得するほどいい性格をしているわけではない。自分で確かめてみないと納得しないのである。

 実は別冊宝島の『徳川将軍家の謎』というムックの中に、井上智勝氏の「江戸守護の呪的バリア「五色不動」とは?」という優れた論考があるということも調査の過程で判明したのだが、これは国会図書館でも見つからず、お手上げ状態になっていた。これを古書で入手したのは二〇〇四年のことなのであるが、ここには「五色不動存疑」をもとに、さらに詳細に調べた記事が掲載されていた。もっと早く見つけていればずいぶん楽になっていたはずである。
 そういうわけで、一部は井上氏の研究とも重なる部分もあるのだが、それは後から知ったことということでご容赦いただくこととしたい。

 さて、私の五色不動研究は、いくつかの「軸」を持つこととなった。
 一つは「それぞれの不動の歴史的な流れ」を追いかけること。江戸時代の文献や、各不動で配っている資料をもとに、それぞれの不動の由緒来歴を明らかにしていく。これは「場所」ごとに「時間的経緯」を探るということになる。また、目白・目黄・目青はもともと現在の場所にはなく、移転してきているので、時間的経過による場所の変更も合わせて見ていくことになる。要するに、五色の不動それぞれの歴史地図・歴史年表を作っていく作業だ。
 また、年代という軸をもとに、それぞれの時期に五色不動はどのように存在していたか、という事実を切り取っていくという視点も必要だ。家光の時代の不動、元禄の不動、享保の不動、幕末の不動、明治の不動、大正の不動、そして戦前の不動、戦後の不動……。時間軸をもとに輪切りにしていく感覚である。
 そして、もう一つは実際に五つの不動の現在地とかつての所在地を訪ねるという「足による調査」だ。実際にその場所に行ってみることによって手に入る資料もあるし、何よりそこで新たな発見もあるだろう。

 五色不動について徹底的に洗い出してやる。もしかしたら「まぼろし」、もともと存在しなかったかもしれない「五色不動」という「化け物」。そいつをあたかも江戸時代から存在してきたかのように思いこませた「何か」を徹底的に暴き出してやる!

 そのための調査の最初のターゲットは――目黒不動だ。

(初出:2005年2月28日~3月16日)


➡ まぼろしの五色不動【2】五色最古の目黒不動を歩く
⇦ まぼろしの五色不動 解題/ごあいさつ

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