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「薩摩支配」と言っても、最初から黒糖作らされてた訳ではなかったりする

今日こそは余裕持って投稿……気がついたらまたこの時間でした。
もはや毎日8月31日の夜の気分を味わっております(何故に学習しないのか😭)

さて「ワンダーアマミ」vol.6の担当ページでは

  1. 当時の時代背景

  2. アーバカナの謎

  3. 奄美の島々と海上貿易

  4. 運を天に任せない女達

と4段落に分けてたのですが
ゴリゴリ文字削りまくりました。
一体、最初の推敲前には何文字あったのか、もはや不明…(遠い目)

というわけで当時の時代背景から。
誌面の方では登場する役人が検地しに来た役人という事なので、事実だとしたらおそらく1609年(経過年数が分かりにくいので、今回は西暦表記です)の薩摩藩の侵攻からそう間もない初期の14年間までの頃だろうと書きましたが

薩摩藩の支配に入って後期の享保検地(1726〜1727)ごろの話と仮定したら、その直後に「大島規模帳」(1728)という奄美の島民へのあらゆる細かい規制が定められているため、勝手に櫂船を造ることは禁止されてるわ(68条)、島民が他の島民の行動を役人に密告することを励行するわ(90条)、
逃げる準備を整えて海へ逃すことが出来ない、逃した両親もその後奄美と喜界を船乗って行ったり来たり出来るほどの自由はなく無事では済まないだろうという考えからです。
更にウラトミの母アーバカナが「新婚のウラトミが喜界に家を建てるための木材を送ってあげた」というエピソードもありますが、大島規模帳では建材を勝手に使ったり舟造ったりする事も禁止されています(128〜130条)
小舟は例外とされていますが、検地しに来た役人に楯突いた島民が浜辺で舟作って目立たないはずもなし。

関ヶ原を生き延びた戦闘民族・薩摩隼人達の船団により、あっという間に(なお琉球はちっとも奄美を守る気なかった模様)群島全体を制圧されたとはいえ、上記の大島規模帳のお達し以降に比べたらそこまで厳しいものではなかったと思われます。

ちなみに江戸時代に入ってからの奄美の歴史について、私らシマッチュは何となーくざっくり「黒糖地獄」という名称で聞いてますが
実際にサトウキビを黒糖にして、米を納めた場合と換算して納税する「換糖上納令」の制度になるのは1745年と、かなり後です。
暴れん坊将軍」でお馴染みの八代将軍、徳川吉宗(1684-1751)が将軍職を退き、引退する頃でした。
吉宗には「米将軍」というあだ名もあり、享保の改革(1716〜1745)で幕府の財政を建て直し…というのは日本史でも出て来るわけですが
幕府の財政を建て直す、というのは今のように日本銀行券を発行するわけではないですし、鎖国してるので(まあ長崎とか琉球とかで何をやってたかはさておき)外貨を稼げるというわけでもなく
当然ながら諸大名には「しっかり年貢を上納するように」と厳しめになります。

そうなると関ヶ原で石田三成の西軍にうっかりついてしまって立場の弱い外様大名となった薩摩藩は
江戸からは一番遠いのに参勤交代はしないといけないわ、
「琉球は薩摩が面倒見ろ」と押し付けられるわ、
その上に「藩内の農民をキリキリ働かせて納税しろ」という厳しい状態。
(更に将軍が九代・家重に代わると今度は木曽川の宝暦治水というものっすごい大変な公共工事を任される)

今でこそ鹿児島県内でも美味しいお米は作れますが、稲作はそもそも水源豊かでだだっ広い「平野」という地の利があってこそ大規模に作れるもの。
まして平野どころか平地が少ない奄美大島ではせいぜい笠利のなだらかな地域を利用して作る程度しか見込めなかったでしょう。
当時はまだ地球規模な中世の寒冷期から抜けてなかったし。

奄美支配の前期はおそらく、農作物をじゃんじゃん作らせるというよりは、琉球での密貿易ルートの中継地点確保が主だったと思われますが
サトウキビ栽培により「黒いダイヤ」とも言われた黒糖を作る事が可能になってから、次第に労働力であるシマッチュに対する締め上げが厳しくなります。

そういった点から「娘を逃し、その無事を確認してからも連絡のやり取りや往来が出来るとしたら、まだ支配がそう厳しくない初期の話ではないか」と考えました。

参考:享保十三年「大島規模帳」に関する考察──薩摩藩の奄美諸島支配について── 箕輪 優


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