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日本復帰以前の奄美群島内メディア

危うく1日1更新が3日坊主になるとこでした…((((;゚Д゚)))))))

今日、プレジデントオンラインでこういう記事を読みました。

後半の部分的には若干共感しない点もあるのですが、ほほうと思いながら読んだのがここ。

戦前期、「新聞は日本全体でどのぐらい存在した」のでしょうか。当時の全国紙は朝日、毎日、読売の三紙でした。対して地方紙は……。実はこの頃、全国の新聞の総数は、1938(昭和13)年5月には1万3428紙を記録しています。
これは新聞が、政治団体の主張を掲載する政治パンフレットの役割を果たしていたという歴史があります。
明治初期の自由民権運動と共に全国的に新聞が創刊されました。
全国紙は政党色を脱して、政治的には「厳正中立」を建前とする中立系でした。
一方、地方紙は、各市町村、地域の支部ごとの政党支持者を新聞購読者としていたため政党色が根強い。したがって多い県は300から400紙、少ない県でも20から30紙も存在しました。そういった背景のもと、戦争の時代に突入したのです。

「太平洋戦争を煽りに煽って、焼け太りした」新聞社の社史に出てこない空白の歴史

ほほー。それで昭和20年代、新聞発行用の印刷用紙を入手する事すら厳しかった奄美群島内で、2つも新聞社立ち上げがあって、それぞれに社主のカラーが強めに出てたのかと。

1つは戦時中も被災しながら発行し続けた鹿児島日報大島総局記者だった村山家國氏が、印刷機を譲り受けて昭和21年11月1日に創業した「南海日日新聞」(65周年おめでとうございます)

もう1つは、大島中学校(現在の県立大島高校)で教鞭を取っていた奄美共産党設立者の1人である中村安太郎氏が発行人を務め、昭和21年3月に創刊した「奄美タイムス」

南海日日の方は現在もそのまま日刊紙として続いているけれど、奄美タイムスは役目を終えたかのように昭和30年5月に廃刊。

今でも県立図書館奄美分館で、当時の記事はマイクロフィルム状態で保管されているのですが以前ちょっと読んだ時に「終戦後から米ソの対立が始まって反共産主義全盛期だから、そりゃ軍政府にターゲットにされるわぁ…」という印象を拭えませんでした(赤旗の文章を小難しくした版読んでる気分になった)

とはいえ中村安太郎氏が奄美群島における復帰運動の前半で、青年団やら若い世代にハッパかけて「このままじゃいかん!」という原動力になったのは確か。
私は右寄りな方だと自覚してますが、この辺は事実なんだしもう少し知られてもいいんじゃないか?と思ってます。

現在の復帰関連のイベントでは「奄美群島内のみんなで一生懸命署名やらハンストやらずっと頑張った結果、昭和28年12月25日に奄美群島は日本へ復帰しましたー」
というめちゃくちゃいい話に聞こえますが

そんな大規模組織的な運動は昭和25年ごろまで島内展開されず、「奄美の戦後復興のためには日本復帰あるべし」と共産党寄りの若者が主張したところで「戦争に負けたんだからアメリカの言いなりになるしか無いだろ」と大部分では諦めモード。
しかも小規模な政党や団体の「ワシが復帰運動を始めた」的な対立が発生して猿山のボス争い合戦状態(軍政府からしたら「両方とも潰しあってくれたら助かるわー」の状態)

むしろ島外の出身者による東京奄美会や関西奄美会による「奄美連合」の方が、昭和22年の結成大会から既に日本の再独立の際になんとか本土復帰させねば、と政治家にアドバイスを求めたり各地方で集会を開いたりと、現実的な働きかけを先行させていました。
この辺は復帰60周年記念として東京奄美会が発刊した「東京における日本復帰運動」に詳しく書かれているので未読の方はぜひ。

島外の出身者がそうやって頑張ってる状況を知ったシマッチュは昭和26年1月1日にマッカーサーが「そろそろ日本の再独立を」と言った直後から「講和条約締結時には是非とも、奄美の日本復帰を!」とここでやっと具体的な目標(と締切)が見えて復帰協議会を結成し、穏健派の泉芳朗氏がリーダーとなって「反米運動じゃないよ」「特定政党活動でもないよ」と打ち出し、それを南海日日や奄美タイムスが支えて一気に群島全体への復帰運動へと広まっていったと。

当然のことながら少しでも軍政府批判につながる内容を書くと、「ちょっと来て説明してくれないか」と軍政府(今の大島支庁があるとこ)からお呼び出しがある訳ですが、それでも国語力を駆使して綱渡りしつつ、二紙は復帰運動の情報を群島内に伝え続けます。

残念ながらサンフランシスコ条約締結までに奄美の本土復帰は成就しませんでしたが、それでもへこたれる事なく粘り続けた結果、遂に昭和28年8月8日、ダレス国務長官が奄美群島の返還を表明。

ちなみにこの後、10月ごろに復帰協議会は「復帰祝賀の歌を作ろう」ということで歌詞を募集するわけですが
結果、一等は村山家國氏「島の夜明け」

出来レースだったんじゃないのかと思ったりもしますが
氏のつくった「島の夜明け」を大作曲家、山田耕筰氏に依頼して
完成した曲が現在も歌われる「朝は明けたり」となりました。

思想の違いはあってもただただ「奄美の復興のために」という意気込みが当時の二紙には見られたわけですが

果たして、令和の時代の「南海日日新聞」「奄美新聞」にもその志は引き続き継がれているんだろうか?と思うことがあります。

広告主や、どことは言わないけれど特定の団体に忖度して「報道しない自由」を重視するメディアであって欲しくないな、と昭和20年代のシマッチュを鼓舞したであろう、二紙の活躍を思い出すたびに願わずにはいられません。


参考:
「太平洋戦争を煽りに煽って、焼け太りした」新聞社の社史に出てこない空白の歴史

「あまみエフエム ディ!ウェイヴ」放送原稿「村山家國」

離島のメディア事情 徳之島の場合

日本復帰60周年 「東京における日本復帰運動」

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