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2月はとにかく国境離島絡みの日が多い

お久々投稿です。流石に今日はサボっちゃならん。
奄美の郷土史は、郷土の歴史を学びつつ世界史も学べる、1粒で2度美味しいのです(違)

タイトルで「2月7日の北方領土の日とか、2月22日の竹島の日のことでしょ」
と思うかもしれませんが、ちょっと違う(関連はどっちもあるけど)奄美群島民なら「昭和21(1946)年2月2日」こそ忘れちゃいけないのです。

終戦後に外地の出征先から帰還兵がやっと帰国し始め、鹿児島に疎開していた学生達も奄美に戻る中で、島民にとっては寝耳に水の「北緯30度から南は行政分離対象です」というラジオからのお達し。
(※当時の奄美群島にとっては大事なことだし、復帰運動のスタート地点でもあるけど、この「連合国覚書宣言」の書類など資料画像が見当たらないのがちょっと残念…。奄美市博物館が外務省か沖縄公文書博物館から探し出して資料保存してくれることを願います。米軍もデジタルなら保管してるだろうし)

軍事拠点として利用価値の高い沖縄本島以南じゃなく、何故に基地造れるような平地少ない奄美まで…と思うでしょうが、そこには軍事的理由というよりも「外交カード」としての理由がありました。

第二次大戦中、連合国として仲良く戦勝国になったソビエ連邦。(現在のロシア)とアメリカですが、元々共産主義国と自由主義の国。とりあえず大戦中は「敵(日独伊)の敵は味方」としてまあ協定結んでましたが、戦争が終われば話は別です。
しかもソ連は日本が降伏したにも関わらず、昭和20年8月15日以降もひたすら千島列島の北から、北海道に向かって南下しようと攻撃を続けておりました(この辺は「占守島の戦い」のwiki参照)
最終的に、北海道本土ギリギリ上の「北方四島(択捉・国後・色丹・歯舞諸島)をソ連が占拠し、沖縄本島を中心とした南西諸島には米軍が上陸して戦略拠点となりました。

米ソ対立の戦争は戦後、1950年の朝鮮戦争からスタートのように思えますが、なんのことはない。既に、WW2末期の日本から始まっていたのです。

話を奄美に戻します。奄美群島は降伏文書にて当初「北部琉球」と記載されていました。米国側にとって奄美群島は「ずっと日本に属する地域ではなく、かつての琉球国の一部」と思われていたのです。
(この辺の過程はエルドリッヂ博士の「奄美返還と日米関係」のp34〜35を読むことを薦める)

が、降伏文書に署名しようとした奄美群島日本陸軍司令官陸軍少将高田少将は地名の誤記に気付き「奄美群島は鹿児島県大島郡に属する地域であって、琉球諸島の一部の北部琉球などではない」と数時間問答となり署名を拒否し続け、最終的には高田の意見が通り修正されました。
この辺りも長いので詳細はこちらの外交資料館報を。

個人的には、奄美の為政者について客観的にハッキリしてるのが琉球国による侵攻以降なのでそういう勘違いが生じても仕方なかったと思います。
だからこそ「奄美は元々日本に属していますよ」という国際的な証明のためにも、私は奄美の古代・近世のまだまだ不明な時代の史実が明らかになってほしいと願うのです。

その後も「北部琉球」と公文書で記載されているのを発見しては高田少将は米軍に苦情を言い、修正される、が続き、高田が軍職を解かれ奄美との接点が無くなった後は誰も文句をつけなくなり、なし崩しに「北部琉球」という地域名がまかり通るようになってしまいました。

1941年当初はもう笑うレベルの勘違いから始まったトカラ列島以南を含めた奄美の行政分離ですが、次第に米ソ対立が深まるにつれて、一種のチキンレースの材料となります。
「もしもソ連が日本を味方につけるため、北方領土や千島列島の返還を日本に促したら」という場合に備えて、アメリカ側も「ならうちはこうしますよ」という切り札を用意しておく必要があります。

とはいえ沖縄本島は東南アジア方面への軍事拠点として手放す訳にいかない。

そうなると残る手札が、「トカラ列島」「奄美群島」だった。

なので朝鮮戦争において日本がアメリカに協力した後に再独立と共にトカラ列島の大部分を返還し、
朝鮮戦争後も沖縄の軍事拠点を失わないため、日本国民の感情のガス抜きを行うための奄美群島返還だった訳です。
その後も小笠原諸島、沖縄返還、と強く外交や軍事戦略的な意味合いを持って日本の島々が返還されるようになりました。

人によっちゃ「弱い離島を外交のコマ扱いするなんて酷い」と思うかもしれません。離島に住む私も多少はそう思います。
ですが同時に、泣き寝入りするだけではなく
「だったら、議論で立ち向かえる・長期的展望を持てる人材を離島で生み出し続けるしかない」
「二度と侵攻されないよう、『こちらにも用意があるのですよ』という態度を平時のうちから示す必要がある」
とも思うのです。
ガードマンや監視設備がいない金庫ほど狙われるのですから。

明治維新後から昭和初期のシマッチュには、そういった強い気概をもって優秀な若い人材をとにかく最優先して生み出す教育熱が見られました。

行政分離下の奄美においても、雨風しのげる校舎を、教科書を、子供らに日本の教育を、という熱意が真っ先に見られました。

対して今の奄美に住む私達には、同じように「島の未来」を育てる意識があると言えるのでしょうか。

先月のコロナの感染拡大による学校休校、まさかの津波警報による避難警告からの共通テスト受験者に対する対応(29・30日の追試希望者は鹿大へ行かないといけなかった筈だが島の新聞二紙は大高野球部で大盛り上がりして全然問題視せず)

私には、どうも先達と同じように「人を育てることに熱心な島々」とは思えず、今一度、過去から学ぶことも重要ではないのかと考えさせられる令和4年の1月でした。

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