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「夢側の世界の住人」になる日

最近、夢をなるべく記憶しておくようにしていて、気づいたことがある。それは、夢の中でだけで出てくる「同じ場所」というのが、結構あるということである。つまりそれは、現実世界側では存在しない(または知らない)場所なのに、何度も、夢の中で同じ「その場所」が出てくる、ということである。

しかし、「場所」でそういうことはあっても、「人」でそういうことは不思議とない。(または記憶できていないだけかもしれないが。)「場所」でそういうことがあるなら、「人」でも、「夢の中でだけ何度かあった人(しかし現実世界では会ったことはない人)」の登場、みたいなことがあっても、いいはずではないか……と、思うのだが。


以前にも書いたことだが、目覚めた瞬間に急速に記憶から消えていってしまう「夢側の世界」は本来、こちら「現実側」では、思い出してはいけない世界なのかもしれない……なんてことも思う。そして、夢の中だけの住人(が、いたとして、)と、「知り合い」になってはいけないのかもしれない。

もしかすると。

「夢の世界の住人」を「知っている」という状態になってしまったら、その分、現実側の世界に、自分の意識はいられなくなってしまうのではないだろうか?

そして、この「現実側の世界」でも、こちら側の「知り合い」というものが一人も認識できなくなったら、私達は、こっちの「現実側」に留まっていることはできなくなるのではないだろうか?

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そもそも、こちら側の「現実世界」で、「知り合いの人間が誰もいない」という状態を作ることは、まず困難なことではある。何故なら、人はスタート時点で、人から生まれるから。そして生まれたばかりの人(つまり新生児)は、他の動物と違って、一人では、生き残って成長していくことはできないだろうから。つまり、人は周囲に誰もいない状態で成人できないだろうし、成人した頃には「記憶」の機能も定着して、(もしもその時にそこに誰もいなくなっていたとしても、)少なくとも、記憶の中ですら「知り合い」が誰も認識できていない状態というのは、作れないはずだからである。

仮説として。

「現実側の世界」も「夢側の世界」も、自分とその世界とを繋いでいるのは「人」であり、いうなれば「そこの世界の人を知っているという意識」なのではないだろうか。

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こちら側の現実世界で、「その人を知っているという意識」が誰に対してもない状態って、リアルに想像できるだろうか。知り合いが誰もいない場所に行くことはあっても、かつて自分が居た場所に存在していた人のことは思い出せるはずだし、また、行った先のそこに新たに人が居さえすれば、すぐ「知る」ことはできる。いや、できるというより、人というものはすかさず誰かを「知ろうとする」のではないか。(その人とコミュニケーションをとるかどうかというのはまた別の話として。)

意識の中に、他者というものが何もない状態って、そもそも人は作れないのではないか?

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これまで、この「現実側の世界」で生きてきて、途切れることなく休みなく続いているもの――例えば、呼吸をしていること、毎日眠ること、等々――って、当たり前になってしまっていて、だいたいもう改めては意識することすらなかったりする。

「他人を認識している」「他人という存在が意識の中にある」というのもまた、考えてみると、生まれてからずーっと、続いていることではないか。

もしも、「現実」の中に「誰もいない」以上の世界、――例えば「意識の中にすら他人がいない」「他者というものの存在を知らない」世界を、現実としてリアルに思い描ける、または感じられるようになったら。

その時点で、もしかすると自分は、「夢側の世界の住人」に、クルッと反転してなってしまうのではないか。


……。

……なんてことを想像するのは楽しいですね。(笑)