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「強い願い」が「苦痛」を連れてくるなら

望むことも願うことも何もない人生は、少し味気ないかもしれない。
そして、何かを願ったり望んだり強くすればするほど、「そういうこと一切なしにただただ生きていくだけ」よりかは、毎日に張り合いが出てくることも多いだろうし、明日、あるいは未来、つまり「この先」を、もっと楽しみに思えるようにもまたなるかもしれない。「時をこの先へと進めたい」という気持ちも、より湧いてくるようにもなるだろう。

未来なんて本当は誰にとっても、続いていくものなのかもわからないし、そもそも見えないものなので、そんな「実体のない」所を明るく照らし出せる存在があるとするなら、それは「夢」とか「希望」とか「願望」とか、そういった類のものが原動力として大きな役割を占めるだろうことは、想像に難くないだろう。
そういう「こうなったらいいな」という心持ちの類がなければ、わざわざそんな未来という「まだ何の実体も保証もない方向」へ向けて、限られている手持ちのエネルギーの中から捻出してまで、明るく照らし出すなんてこともできないと思うのだ。(そもそも確実に実存している今現在にエネルギーを注いだほうが無駄がない。)(一人の人の中にあるエネルギーには限りがある……と、歳をとったせいか最近頓に感じる私なのである。笑)
誰もが時間軸に沿って、本当は(良くも悪くも)どこまで続きがあるかもわからぬ道を、それでも「先へ先へ」の方向へと必ず進まねばならない以上、(時間軸を「後戻り」できる生物なんて今のところこの世では確認されていないのであるからして、)ずーっと暗中模索の暗夜行路を行くのはつらいであろう。
だから、「行く道」を、より強く明るく照らし出せる何かが手元に用意できるのであるならば、それを使ってこの先へと続く方向を照らし出していくこと自体は、とてもいいことであると私は思う。

が、しかしである。

「願い」や「望み」とは、叶うものもあれば、叶わないものもあるのが常なのである。
願いや望みが強ければ強いほど、先を照らす光もまた強く発せられるということはあるのだが、実はそれにはそれなりの「自前の」精神的な燃料もまた必要になるわけで、と、なると、「延々と叶わない」ほうの、でも「まだまだ実像はわからない」というそんなものに向けて、「強い光を放出し続ける」というのは、なかなかどうしてそのうちつらくもなってくる場合もある。それは当然のことだろう。――いや、叶う気配など一分もなくても「妄信的に」どこまででも信じ続けることにより(言い換えればある意味「自分で自分を騙し続ける」ことにより)、その精神的燃料を「捻り出し続ける」というのも一つの手かなあ、と個人的には思える部分もあるが、でも自分なんかは(妄想は妄想で激しい反面、笑)割とどこか「現実的な」人間なので、「いつまでも自分のこの願望は叶えられないのでは?」ということに、ある時点でふと気づき出してしまうことも多々あるし、また、その状態ではいずれそのまま「この先の何かを願うこと」、つまり「照らすエネルギーを出し続けること」自体に、疲れ果ててしまったりもするようなのである。

「夢を見ることに疲れ果てました」って、言葉にするとどこか甘やかな感じがしないでもないが、でも現実はただただ、「自分自身のカタチをしてしまっているもぬけの殻」つまり「魂が失われた途端、自分の姿をしているだけになったただの亡骸」が、目の前にポツンと残っていたりする「死体遺棄」状態だったりもして、自分でそんな自分を目の当たりにしてしまうというのも、幽体離脱以上の結構切ないまたは薄ら寒い光景だったりもするものなのである。(※幽体離脱はしたことないのでイメージです。笑)

思うのだが。
(これは今回のお題の「願うこと」に限らず何についても言えることだが、つまり概して、)「疲れた」という自らせっかく発せられている信号に対し、何故か人は割と「無視」を決め込むことも多かったりする。――いったい何なんだ、この習性は?と、感じているこの頃の私である。
「疲れた」と感じて立ち止まったり休んだりするのがまるで悪いことみたいではないか。――「それでも頑張ること」「無理し続けること」「歯を食いしばること」は、何においても、何から何まで、素晴らしい、とでも??と。
多分、「頑張り続けること」「信じ続けること」は素晴らしいという学校時代からの繰り返し行われた妙な「擦り込み」が、私達に大きく影響しているのではないだろうか。――「頑張る、信じる、それらをどこまでも何があろうと貫き通す。」それはそれで、素晴らしい側面ももちろんある、それは認めるのだが。
いや、でも、心や身体が「疲れた」とせっかく言っているのを、闇雲にぶっちぎって「頑張り続ける」「信じ続ける」ことは、「率直に言って、素晴らしくないどころか、よろしくないのでは?」と、私個人は思うのである。

「夢」も「希望」も「願望」も、我々の毎日をまず明るく照らし出してこそ、存在価値のあるものである。
しかし、それらの存在が「苦痛」「重荷」「回復しない疲労」にまでなるほど、「強い」「重い」「大きい」存在になってしまうことは事実としてあって、で、そうなってしまったのであるのならば、それを弱めたっていいし小さくしたっていい、というか、そうした「調整」は、意識的にしたほうがいいのだと私は思う。

同じ太陽なのに、冬の太陽はありがたいが、夏の太陽はきつい。――「夢」や「希望」も、そういう「両面性」があるものだと思う。
それがきつく感じる時には、いくら「暗中の先を行くには失われては困る光源」なのだとしても、そこまで明るくなくていいし、そんなキラキラ輝かしくなくてもいいのである。
「自分で打ち上げた太陽」のその陽光が降り注ぐのが、高い位置から過ぎてつらい時は、日陰に入って、少し休んだらいいのだ。
陽射しをきつく感じる「季節」には、たたずんで、遠くからその光線や日向を、「まるで他人事、あるいは鑑賞物のように」眺めて愛でたっていいではないか。――距離をとって日陰から眺めたことであらためて気づける、「光というものの美しさ」も、きっとあるだろう。
つまり、「夢」だろうと「希望」だろうと、それを苦しく感じた時は、一旦降ろしていい、逃げていいのである。
で、その代わりの、既に手元に携えている中での何か軽い別のものでも、足元や、あるいは一、二歩の先くらいまでなら、案外十分に照らしてくれるものはいくらでもあったりするし。
また、時の流れというものは別にその流れに乗り続けなくてもよくて、立ち止まって岸辺の傍から時の流れを「眺めている」くらいの感覚になったって、それはそれで別にかまわないはずなのである。
「私は私の人生に責任を持っている」つもりなので、そんなの、「私の勝手」でその時どきで、自分が一番座りの良いようにすればいいのだと思っている。

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「現実的な期待」を一切しないままで、
夢や希望を持ち続けていけたなら、どんなにかいいだろう?
と、またふと思ったりもする。


もしかすると、「夢を叶える」ことそれ以上に、
「夢を見ている」こと、ひいては
「いつか必ず叶うと信じ続けられる、そんな夢だけを見続けていられる」
というそのことのほうが、
更に幸福感は強く感じられるものなのではないか?とすら私は思う。
そして、――二十代の頃までは、これが、
割と無理なく自然にできていた気もするんだよなあ、と、ふと思い当たる。

条件としては、
「とりあえず未来はまるで永遠であるかのように、
その上、このままの健やかな状態で、ずーっと続いていく」
と「感じられる」ことが必要で、
で、そういう感覚を懐に携えられさえすれば、
単なる「先延ばし」ではあっても、
「きっといつかは」「きっとどこかで」と
妄想ではなく現実世界のエリアで、思うことはできていたのである。

でも、これくらいの歳になると、
「たった一つの現実」からはもう逃げられない感がある。
体感として、「現実」のその「奥行き」も、
どうしても見えてきてしまうというか。
「いつか」とか「どこか」とか、そういう
ぼんやり・ふんわりとさせた「不可視であるからこその逃げ場」なんて、
もう用意できるだけの時間の「余白」も
自分の場合は残っていない感じなのだ。

(だからこそ逃げられなくていいとも言えるのだけど。)
「行き止まり」がやけに見えやすくなった、
目近のその壁ばかりに囲まれている、
そんな、「今日この頃」なのである。
「先が見えないことを利用した逃げ場」は、
ここからはもう、心の中にすら用意できそうにない。


――しかし。
焦ろうと、焦るまいと、いずれにしても関係なく、
心の季節は必ず移ろうものだから。

また陽射しや日向が恋しい季節が巡ってきたなら、
その時、またあらためて、キラキラ輝くまた新しい陽光の中に、
その光の眩しさを喜びながら、飛び出していけばいいではないか。

――そしてそう、考えてみると、その時には、
「叶えるため」の夢ではなく、
その光の強力さも素直に受け入れられるように、
「自分を騙す」のではなくある意味「割り切って」、
「見続けるため」の夢のほうを、
あらためて探しに行ったって、別にかまいやしないのである。

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それに、これまでの自分の過去を振り返ってみれば、
叶った夢はもちろんそれなりの明るい光を放っているけれど、
叶わずに終わった夢もまた、
それとは違った色の光を点していたりもするものなのだ。


「どう夢を叶えるか」も大事だけど、
「どう夢を見るか」も、
これまでずっと、自分にとっては、とても大事なことだったのだと気づく。

どうせなら、強いだけでなく、綺麗な色の光も、
後々の自分に残してあげたいと思うのである。

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