見出し画像

「一発で人生が変わる方法」

こういうことを言うのは、大変、気恥ずかしいのだが。

今の私にとって、「書くこと」は、生きる「よすが」みたいになっているところがある。

元々、もう幼少の頃からずっと、「何かを作ること」は好きだった。
――これまで、それはそれはもう、色々と作ったものだ。(ホント、昔はいろんなものに手を出していた。笑)

しかし、いつの間にかアレをやめ、そのうちある時にコレを諦め、――と、そうこうしているうちに。

一番最後の最後に、一つ残ったものが、こうして「文を書く」ということだった。

子供の頃から、書くことが好きだった。――それこそが、自分の心の「拠り所」であった。

「他に欲しいものはない」と言えば噓になるだろうが、「今自分が持っているもののうちでどうしても残したいもの、二つだけ選ぶとしたら?」と問われれば、「最低限の健康」と、「書くこと」を選ぶだろう。

「歳とともに」という意味で「徐々に失われていくことには諦めもつく」のだけれど、――しかしその部分を無視すれば、「その二つだけはどうしても奪われたくない」というのが、紛れもない本心だ。

「書くこと」をやめたら、私は少なくとも、「今の私」ではなくなる。

但し。

「書くこと」をやめて、私が私でなくなったとしても、別に「人間でなくなる」とまでは思わない。
――それは、「別に死ぬわけじゃない」、とも言い換えられるかな?

「命の次に」というものは、「命そのもの」ではない。――つまり、「命あっての物種」である。

私は文を書くことを生業にできているわけでもないし(できたら最高ですけどね!)、と、なると、文を書くことで、物理的に(自分も含めて)誰かを「食わしている」わけでもない。

「何かしら読んでくれた人の助けにもまたなることを」というのは、書く時にいつも頭のどこかにはあるものの。

「食い物に困っている」という目の前の人を、私の文章は、直截的に助けてあげられるわけでもまたない。――食い物に困っている人というのは、まず「今日のメシ」に、困っている人のわけなのだから。

私の書くものは、「私だけ」を、確実に助けてはいる。
――が、「私以外の誰か」を、いつも必ず即時性を持って助けられはしない、ということだ。

それこそが「私の書き方」だからだろうとも思う。

(「人を助けるため」というそれだけを「あからさまな目的」のように、つまり「見えるように据えて書く」のは、どうも私は「私自身の書き方として」しっくりこない。「誰かのためではなく、まず自分のために、自分が書き残したいからこそ」書く、というのでなければ、私は書けない。)

ところで。

これだけずーっと長い年数続けていることなので、ある時、パタンと完全に書くことをやめたら、多分、それだけで人生変わるかも?なんてことも思う。
(良く変わるか悪く変わるかはわからないけれど。笑)

今の仕事はやめて、新しい仕事を探すかもしれない。
(もしかしたら同じ内容の仕事かもしれないけれど、勤め先は変えるかな?「書く時間を確実に確保すること」より、もう少しだけ、「収入UP」と「その仕事をやる意味を見出すこと」を目論むかな??笑)

あるいは、視点を「時間」に移せば、「何かが変わる」ことは明白であろう。

例えば毎日、このnote執筆に費やしている時間――「塵も積もれば」で、ある一定期間の総計で考えれば、結構、膨大な時間になっていると思うが――これが「ポンッ」と、「空白」として空くわけであるから。

必ず、そこの空白には、「何か」が入ってくるはずである。

いや、こうして必死に他の雑事との兼ね合いから時間のやりくりをして、「毎日書く時間」を捻出しているが。
(ホント、書くことだけできたら、どんなに良いだろう!――せめてこれが仕事だったら!!「書くことばかりやっていて疲れた、もうやりたくない」なんてそんな贅沢なこと、自分は絶っっっ対言わないと思う。笑)
(話を戻して、笑)
――眠らなくてはいけないし、最低限食べなくてはいけないし、他にも「社会に適合する」ためにやらないといけない雑事もいろいろあるし、――「一日が、どうやりくりしても二十四時間しかないなんて!」というのを、日々、つくづく感じながら、過ごしているわけだけれども。

そこに、これまでなかった「空白」が、空くわけである。
――「何を置くのもとりあえず自由」、そんな「時間の空白」が、それなりに大きくとれたなら、これはどうなることだろう?

それは「あなたの人生の時間に、新たな何かを、どうぞ置いてみてください」と言われているのと、同じことだともまた言えるわけである。

「これまでやってこなかったこと、あるいは、少なくとも今現在はやっていないこと」が、そこに置かれるわけだから?

絶対、生活は変わるし、――下手すると、「人生観」までも、そっくり変わってしまうかもしれない。

そういった意味でも、私にとって、ずーっと大事にしてきた「書くこと」というのは、「最後に残された切り札」でもあるのか?と気づいた。

つまるところ、これは、
「すごーーく大事にして、ずーっと肌身離さず手離さずで、ここまできたけれども、しかし、手離したところで、即死するわけはない」というものについて、そのまま持ち続けてもいいけど、いざとなれば、「思い切って捨てて変化を求める」というそんな「使い方」も、実はあるわけなのだな。
と、いうことである。
(まあ、「即死」はしなくても、「緩やかな死を意味する」となる可能性はあるけれど。笑)
(――しかし私は、「自分の生命力」を、案外信じているので、緩やかにそうなっても、最終的には「生きてはいる」となる気はしている。――まあ、自分のこの場合は、これが「過信」だとしても、「そう信じているほうがまだマシだろう」という見立てもまた含まれている。)


「どうしても、何が何でも、人生を変えたい」と思ったら。

「人生初! 人生を大きく占拠していたそれを捨ててみる!!」
というのも、一つの手なのだよなあ。

――と、いうようなことを、胸に抱いておけば。

「人生これからまだまだ、その気になりさえすれば、『余白』はいくらでも開けられるし、そうすると変わる『余地』もまた、いくらでもあるのだよな」
と、思えて。

ちょっと肩の力が抜けて、軽くなって、よかったっす!
(?!)

という、今回は、ただそれだけの話でした。(笑)