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「足るを知る」のは自分をなだめるためではない

ちそく‐あんぶん【知足安分】

《足りることを知り、分に安んずること》満足することを知らないと、どんなに豊かであっても安らぐことがないということ。置かれている状況自分に見合ったものとして不平不満を抱かないこと。安分知足。

小学館 デジタル大辞泉

しかし。
私にとってのこの「知足」――「足るを知ること」とは。
それを自分に、言い聞かせ、言い含めるためでも、または、自分の止まらぬ欲を、たしなめるためでも、なだめるためでもない。

(※15年前のこの頃とは、少し自分も変わってきたんだと思います。
――この頃の「知足」は、完全に、「自分をなだめすかすため」というところがありました。笑)


今の私にとっては、ただただ、まず、「現状」の把握を正確にしたい、そのための「知足」なのだ。
――当たり前にすべてを思いすぎてないか。
(特に「苦労せず手に入れたもの」「生まれた時から持っていたもの」――あくまで一例だが「健康」等の、そんな内的要因も、同じく一例としてだが「環境」等の、そんな外的要因も、どちらも含めて。)

つまり、「もっともっと」と絶えず求めて、そちらに執心してしまうことで。
「今、手持ちの可能なこと」のうちで、「この場で、一番にすべきこと」を、正確に捉え損ねるのではいないか、と。
それを私は「警戒」しているのである。
――「んなことしている場合じゃないのに!」である。

「あれも足りない!これも足りない!」と、「ここにないもの」そっち側に意識の中心が移ると、「抱えている問題」が、無駄に増えるのである。
――そうして、本来悩まなくていいことまで、無駄に悩むようになる。

(だいたいこういうのって、「前向きな悩み」にも「発展的な悩み」にもならないんだよなあ。――「結局気分を落ち込ませるためだけの悩み」みたいになるので。
そんな手が掛かるというか手間取るというかなものを取り扱えるほど、オレの気力は、有り余っちゃあいないのだよっ!!笑)


早い話が。
「余計なこと」までしている余裕は、もはや私にはない、ということなのである。
(あれば多少、「そういうムダな足掻きも含めて人生じゃん!」なんて、ふんぞり返って言えるんですけどね。笑)