見出し画像

パワハラ上司の幸福を祈る?!?!


先週の土曜、かつて自分が遭遇したパワハラ上司の話を書いてしまい。

たぶん読んだ方も重苦しく感じられて
まあまあ不快になられたかと思うので。(スミマセン!)
(いや、今読み返してみて、「負のオーラ」が立ちのぼっている文章であるなあ、と、自分でも思いました。笑)

なので、
今回はその「災い転じて福となす」な「後日談」でも。

……っていっても、
「普通に今は健康で明るい毎日です」ってだけの話なんですけど。

いや、しかし、
その「強烈過ぎるパワハラ」がなかったら今でも自分は、
「(その上司がいなくても他にもいろいろ問題があったので)あんまり在籍すること自体にどこか気が乗らない」あの職場に、
「いつかは辞めたい」というような完全に後ろ向き気持ちのまま、
あのまま延々と、もしかすると、今現在も勤めていたような気もする。
――歳もそこそことっていたので「転職できるだろうか?」という不安もあったり、
あるいは、「自分のこの仕事を一体誰に引き継げばいいのだ?!」というようなこともあったり(でもそれは自分ではなく、そもそも上の人が考えて決めることなのにね)、
まあ、「勤め先を辞めること」って、当時の自分にとっては
「人生の一大決心」みたいなズーンとした重さもあったのです。
(長年いたわけではなくて、そこは結果的に二年半しかいなかった勤め先ですけど、それでもそんな感じでした。笑)

あと、変な話、当時の自分は、割と
「我慢はできるだけ、黙ってすべきものだ」と妙に考えがちで、
「無駄に」忍耐強いところもあったし。
(注:今では「無駄な」「何の意味も見いだせない」忍耐は、できない体質にすっかり変わってしまいました。……めでたしめでたし。笑)
(と、いうように「別人格」となった今振り返ると、当時の自分は、我ながらそんな印象です。)

もしかすると、――下手したら今頃、
長年の、納得してないし気も乗っていない「何で自分がこんなことに?」みたいな気持ちのままの長時間ハードワーク加えて長時間サービス残業を続けていたせいで、
心や身体の健康を損なっていたかもしれない。
――いや、ホントに、
この「並行世界」は、あり得たのではないかな?と。

いうなれば、あの耐え難いパワハラ上司がいた「おかげ」で
「この状況はどうしても変えなきゃ!変えてしまえ!えいっ!」
と踏み切れたわけなのである。
――そうなのだ、よくよく思い返してみると、
あんなパワハラ三昧な上に労働状況も暗黒な毎日でも、
それでも当時の自分は、な、なんと!
退職するかしまいかを、まだ思い悩んでいた部分もあったのだった。
今の自分の価値観や考え方からしてみれば、
「ええっ?何故?!」という感じである。
「何を迷う必要がそこにある?こんな状況ならもう辞める一択だろ!」
と思うし、
「いやいや、あんな職場、もっと早く辞めていてもよかったよね?」
とすら、今なら思えるのに。

で、一回、話を戻すと
「狂暴パワハラ上司」の「おかげ」で、自分の今現在の
「平穏な日常」「自分で納得している毎日」があるとも言える。
(という「設定」にしてここは話を進めさせてください。笑)

その勤め先を辞めたのは2010年だから、12年前。
それをきっかけとして、仕事以外にも、ずいぶん環境を変えた。
実家からも離れた土地に移住し、
それまでやってみたかった(けどそれまではできなかった)ことも
いろいろやってみた。
――「いつかは」っていうのは、やはり当てにならないこともある。
「やってみたかったこと」を「いつかは」で保留したまま、
つまりきっと、一度もやることもないまま、あのまんまで、
悶々と過ごしているそんなもう一つの「並行世界の今現在」もまた、
容易に想像できたりもする、というわけなのである。
(その後、特に何を成し遂げたってこともないのですが、笑
でも、「気がすむ」ってそれだけで大事なことだとつくづく思います。)

つまり、
大事なのは「今現在」
――そこを
「今できるかぎりのやりたいように」「気のすむように」過ごせていれば、
「こっちのもの」なわけである。
過去に誰に何をされようとも、
そこから「抜ける」ことによって、
いくらでも「人災の災いなら転じて福となる」ようにできている気もする。
(と、「あえて」思うようにしてみる。)

ならば私は。

「災いとは、必ずそれを転じさせて
自分で福となすようにひっくり返すために存在する。」

と、考えることにしようかと。
――「その災いが降ってきた時、そこには自ずと何か
『入れ替えるべきもの』があるのかもしれない」とか、
たとえば思ってみるようにしようかな、と。

「入れ替えるべきもの」とは。
「自分のものの考え方」かもしれないし、あるいは
「とりまく環境そのもの」なのかもしれないし、
「人間関係、あるいはその繋がり方」なのかもしれないし、
いろいろでしょうけれど。

「災いとは、入れ替えのサイン」
だったのかもしれないと思えば。

あの時の自分は、俯瞰で見れば、
実はツイていたんではないか?という気すらしてくる。
(――とまで書くと、さすがにちょっとウソになるかな??笑)

さて、
その土曜日の「パワハラ上司」の記事にいただいたコメントの返しで、
自分はこんなことを書いているのである。

どうしてもこの世には「負の世界」「悪い循環」って
存在してしまうんですよね。
もうこれは、正しい正しくないではなく、
世界とは既にそういうもので、
「存在してしまう」という事実がまず前提にある。
それが「循環されているもの」ならば、
パッと消すことは、かなり難しい。
だってその大元の、更に大元の、また更に大元の…って
「つながっているもの」だから。

でもその「環」から自分自身が抜けることはできる。
自分のやり方がベストだったかは「?」だけど、
自分もとりあえず「抜ける」まではできた。

おや?
俺ったら、その「暴力的なものの循環」のその「環」から、
「抜けるまではできた」なんて書いているぞ??

――もしも、その「負の循環」から、今現在の自分が、
正真正銘抜けているのなら、
「そのパワハラ上司の現在について幸福であれ」と
祈ることもできるはずである。
だって「そいつ」はもう、
自分とは一切関係のない世界の人間になっているはずなのだから。

……。

……。

……私は狭量きわまりない人間なので、
どんな理屈を並べようと、
正直言って、そんなのできませんっ!(オイオイ!笑)

完全に過去のことだろうが許せんものは許せん!
で、いいのではないだろうか。
本当に、それはそれでいいと思う。

しかしである。
そのパワハラ上司に、
二度とお会いすることもないだろうし、
お会いしたいと思うことももちろん一瞬もないだろうし、
ならば、
「その完全に過去にした世界」を
本当に「今現在自分のいる場所」から、
意識の上でも切り離すためにも、
やろうと思えばできるはずではないのか?

――いや、「やったほうがいい」のではないか?

かつて直面した「暴力的な負の循環」から、
「完全に」、自分は、抜け出てみたい。
そのために。

――「そいつ」の今現在の幸福を、祈ってみようかな??

……。

うーーーむ。
(難しい!)(でも、きっといつかは!!笑)

でも、繰り返しになってしまうが
不幸や災いというものは
「抜ける」ためにあるものなのだから、
(と、そう考えることにしたのであれば、)
間違っても
「自分が今いる沼に誰かを引き摺り込みたい」
などという思考回路にはならないようにしたい。
――まあ、先週の土曜の話はつまり
「『そういう思考回路の沼の住人』につかまってしまった自分」
という話だったのだろうと思うのだ。

ならば。

「私が抜けたそののちに、
『その沼』に捕まる新たな被害者が生まれ続けませんように!」
という願いをこめて、そのために、という意味でなら、
「パワハラ上司の心にも、いつか平穏が訪れますように」
と祈ることも自然にできそうかな?……ん~?かなあ??(笑)
(そう、ちょっといきなりサイズ感が狂う大きすぎる話になってしまうけど、この世のなるべく多くの人が「平穏」でないと、巡り巡って自分の「平穏」もまたいずれ壊されてしまう可能性もあるわけだからさ、と。)

――と、そんなこんなで。

少なくとも、
当時のあの日々のことを
「ただの不運」としてだけ回想するのは、
これを最後にしようかな?と思いました。

(実は、先週の土曜日、それを書いていたおかげなのか何なのか、身体がやけにおかしくて。笑)(――いや、具体的に言うと、首はよく寝違うのだが、右にも左にも曲がらないような珍しい状態になってしまって、「どうなってんだ、これ??」と思いながら、それでも先週の土曜の早朝から午前中かけてカタカタカタカタ一気に4000字も書いてしまっていました。笑)(ちなみに今現在、同じくらいの文字数の今回の記事を書いておりますが、何ともありません!肩も首も頭もスッキリです!)

「はい、これでおしまい!!!」
ということである。(笑)