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結局私は正気なのか狂気なのか

池田晶子さんの本に、こんな記載があったので、抜書き。

しかし、理解できる意味を超えるとは、早い話が、発狂する事でしょう。
ひょっとしたら、私は発狂しているのかもしれませんが、それはわかりません。
なぜなら、狂気と正気の境目がないとわかる事が、正気であるというそのことだからです。

メモったんだけど、どの本からメモったものか、わからなくなってしまった。スミマセン!


――頭の中で狂気が渦巻いていても、「マトモ」に生きている人なんか、いくらでもいて。
一方で、世間の評価として頭の中は正気で常識人でも、人非人に成り下がって詐取することや蹂躙することばかりに自分の脳力注ぎ込んでいる輩もいて。

あるいは。
「正気」と「狂気」の定義なんて、これまた、時代と共に移ろっていく、「不安定なもの」でもまたあるわけで。
(あくまで一例だけど、この国にだってかつて「敵なら殺しても何してもOK」という感覚の時代もあったわけだし。
――遡ってこれまで過去に仕出かしたこと含めて観察して、「人間というもの」の狂気みて我が狂気に気づけ、だよなあ、とつくづく思う。)

いやいや。
考えてみると、狂気でも正気でも、人としては、「そこの点は」どっちでもいいことなんだよね。
顧みるべきなのは、そこじゃない。


――ん?
んんん??

何だか真面目にまとめてしまっている。

これでは「正気にかえるRADIO」ではないかっ!
いけないっっ!!!



「もし私が壊れても、私の妄想は、壊れない。」

トキザワコトモリ、2024年に向けての所信演説より