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死ぬ時が本当の「成人式」なのかも

「大人になる」って何だか、遠い遠い道のりですねえ。

近づいたと思ってよくよく見えるようになると、
実はまだまだ遠くに位置していることが解る、みたいな。
――蜃気楼かよ、ってね。(笑)
いや、でも、子供の頃に見ていた「大人像」は、
まさしく「蜃気楼」だったと思う。
二十歳の時点で
「あれ?辿り着いたはずなのに、ここには何もないぞ?」
って思ったもの。

「大人になる」なんて、これはもう、
生きているうちには間に合わないかもしれないような気すらしてきた。

本当の意味での、身体だけでない精神も含めた「大人」って、
実は「幻想」みたいなもので、
人というものは、それを追い続けながら、
死ぬ時まで、成長していくものなのかもしれません。


最近頓に考えるようになったのは。

例えば、今より更に年老いて、
「外に向けての自意識みたいなもの」が
抜けてきたり、ぼやけてきたりした時に、
「素の自分」って
どうしても隠したり誤魔化したりできなくなりそうだから、
なので、なるべく今から意識的に、
表だけでなく裏も晒して、
つまり常日頃から裏表がなるべくない自分でいるようにしようかな、
ということなのであります。

いや、
一番最期の最期までその人の中に「残るもの」って、
結局、肩書でも、姿かたちでもなく
「人間性」みたいなものなんだろうなあ、と。

で、それが最期に、
「目に見えるかたち」というか、「露」になっている人が多いよなあ、
と、最近、諸先輩方の姿を見ていて、感じることが多いものだから。

最期には隠しきれずダダ洩れになってしまうが、
でもまあその時、
自分で眺めても別にそこまで恥ずかしくはないような、
そんな「人間性」を
今からなんとか整えられないかなあ、なんて考えて、
軽く焦り出したわけなんです。
――うん、そうなんです。
これは案外、自分の場合は特に、間に合わないかもしれないのです。(相当時間がかかりそうです。笑)