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「我」とか「邪気」とか

強めの「我(が)」とか、
あるいは「邪気」とか、
消せるものならためしに消してみたいものだ。

あと、
「企み」も「計算」も「思惑」も、
何も持たずに生きてみたいものだ。
――こんなちっさい頭の中で
いくら長年に渡り算盤はじいたところで、
いつまでたっても大した目論見も出やしなかった。
(それすら大ハズレ、という始末で。笑)

ただただ、今日という日々を、
やさしい気持ちのまま、思いのむくままに、
好きなものとか、
楽しいものとかうれしいものとか、
気持ちのよいものとかに、
自然に吸い寄せられるように、
あるいはふらりと、見つけるともなくそれらを探しながら、
「漂う」ように生きてみたいような気がしている。

「賢く」ではなく、
「小賢しく」なり過ぎた自分がいる気がする。

どうしてこう、
「余計なこと」ばかりするようになったのか。

「未来」を覗き込んでみても
正しくその通りの「未来」が見えたことは結果的にこれまでなかったし、
したがって思い描いてみた通りの「未来」が来たこともこれまでにない。

そりゃあそうだ。
「未来」だって、うつろうのだ。

「未来」というものが、
時の川、あるいは時の海に浮かべられた
一艘の舟のようなものだとするならば、
とどまることなく、絶えず漂い流れ続けているはずだ。
時の経過とともに必ず形を変えていくのだ。

そんな「うつろうもの」を、
自分ごときの思惑で、その素手で、
抑えつけようとして何をしようというのだろう。
自分の想像力程度から数枚切り取っただけの画像を集めただけ、
それを手掛かりに何かを企んでみたところで、
そもそも、何が見えてくるというのだろう?

――どうせ未来を眺めるなら、
「企み」ではなく、「夢」をみたい。

昔はできていたはずの、
「企み」のない純粋な目で、未来を眺めたい。



ぽ~っと、無計画に歩いていたおかげで、
光、天気、風向き、すべてが揃った、
神がかった一瞬、その時刻に通りかかって、
素敵な景色を、見ることができたし、



その後素敵な神社でお参りも出来た、先週の日曜。