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「我」とか「邪気」とか
強めの「我(が)」とか、
あるいは「邪気」とか、
消せるものならためしに消してみたいものだ。
あと、
「企み」も「計算」も「思惑」も、
何も持たずに生きてみたいものだ。
――こんなちっさい頭の中で
いくら長年に渡り算盤はじいたところで、
いつまでたっても大した目論見も出やしなかった。
(それすら大ハズレ、という始末で。笑)
ただただ、今日という日々を、
やさしい気持ちのまま、思いのむくままに、
好きなものとか、
楽しいものとかうれしいものとか、
気持ちのよいものとかに、
自然に吸い寄せられるように、
あるいはふらりと、見つけるともなくそれらを探しながら、
「漂う」ように生きてみたいような気がしている。
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「賢く」ではなく、
「小賢しく」なり過ぎた自分がいる気がする。
どうしてこう、
「余計なこと」ばかりするようになったのか。
![](https://assets.st-note.com/img/1653698702246-fHuQ45s6tk.jpg?width=800)
「未来」を覗き込んでみても
正しくその通りの「未来」が見えたことは結果的にこれまでなかったし、
したがって思い描いてみた通りの「未来」が来たこともこれまでにない。
そりゃあそうだ。
「未来」だって、うつろうのだ。
「未来」というものが、
時の川、あるいは時の海に浮かべられた
一艘の舟のようなものだとするならば、
とどまることなく、絶えず漂い流れ続けているはずだ。
時の経過とともに必ず形を変えていくのだ。
そんな「うつろうもの」を、
自分ごときの思惑で、その素手で、
抑えつけようとして何をしようというのだろう。
自分の想像力程度から数枚切り取っただけの画像を集めただけ、
それを手掛かりに何かを企んでみたところで、
そもそも、何が見えてくるというのだろう?
――どうせ未来を眺めるなら、
「企み」ではなく、「夢」をみたい。
昔はできていたはずの、
「企み」のない純粋な目で、未来を眺めたい。
ぽ~っと、無計画に歩いていたおかげで、
光、天気、風向き、すべてが揃った、
神がかった一瞬、その時刻に通りかかって、
素敵な景色を、見ることができたし、
![](https://assets.st-note.com/img/1653697911765-pf3WAhGAEY.jpg?width=800)
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その後素敵な神社でお参りも出来た、先週の日曜。
![](https://assets.st-note.com/img/1653698263365-llwuOZgh6s.jpg?width=800)
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