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noteを毎日書く理由

「考えごと」にも、「鮮度」というものは、あるものだろうか。

「考えは刻々と日々移ろう」というところもある。
夜悩んでいたことが、翌朝には「何故そこまで?」となっていた、なんてことはよく聞く話である。

しかし、それは「水面付近か浅いところ」を漂っているような「悩み」であって――然すればそれは、光の当たり方によって、明るくも見えれば暗くも見えるようなもので――深いところに存在して動かない「悩み」なり「考え」なりは、そんなに容易く変わっていくものではないのではないか、とも、私は思っている。


が、しかし。
最近はすっかり、あえて「その日の思いつき」で、noteを書いている私である。


いや、「絶対毎日書こう」などと心に決めたわけでも実はないのだが。
(なのでそのうち途切れると思います。特に来月、勤め先の勤務時間が長くなる期間があるので。笑)
まあ、「書けるものだろうか」と思ってはじめてみたところはあり、で、やってみると案外、「毎日の思い付きで書いてみる」というこれが、何というか「ちょうどよい」感じもしてきて。

何が「ちょうどよい」のか。
言うなれば、内容の「重さ、あるいは軽さ」だろうか。

以前は週に1本程度だったかと思うのだ。
それこそ「一記事入魂」みたいな感じで、書いていた気がする。

しかしそうすると、どうも自分の場合「相当重い」ことに気づいた。
――いや、「重い」が問題ではないかなあ、話を広げ過ぎるとか、複雑にし過ぎるとか、理屈を更にこねくり回してしまうとか、そういうことなのだろうなあ。


人の考えというものは、「本人が考えている以上に」実は、深いところまで根を張っているものだったりすると思う。
(と、仮定するなら、)
何か一つのことについて、考えれば考えるほど、本人も知らなかった「本人の考え」というものは、「新たに思い浮かぶ」(言い換えれば「忘れていたが思い出す」)ことになる。

で、冒頭で述べた通り、「思考のその水面か、または水深の浅い辺り」では、そこに外部から射す光の、その当たり方も刻々と変わっていて、と、なると、「そこから水の底まで届く」ほうの光の、その「屈折の仕方」も、若干ではあるがある程度変化はしていて。
長い時間をかければかけるほど、結果多種多様な光の当たり方となるから、それまで陰になって見えなかったものが、ある日には「!」と不意に見えてしまう、なんてこともあり得るわけである。

つまり、何日もかけて「一記事」を寝かせば寝かすほど、同じテーマで発見される「!」はその要領で増えていってしまうし、すると、同じテーマなら(そしてその当時は「読者の方々は私の次の記事など読んでくれないだろう前提」で書いていたので尚更、)その「!」はどうしてもその同記事の中に書き留めておきたくもなる。
で、書き留めることによって、そこから、光の当たり方の加減もまた変わっていく。
すると、また新たな「!」が見えてしまう。
で、見えてしまった以上また更にそこに書き足したくなり、……。
――と、いうような具合で、「一記事に目一杯詰め込んでしまう」当時の自分だったのである。

思い起こすに。

その、一記事を温めに温めて週一くらいで書いていた「一記事入魂」当時は、「一期一会」みたいな気持ちで書いていたのである。
前述のとおり私は、「同じ方に自分の別の記事を再び読んでもらえたならそれはとてもうれしいことだが、でも、そうそうそんなうまくいかないんじゃない? 偶然その人の目に触れた自分の記事は、概ねこれがこのまま最初で最後のものとなるだろう。」と、思いこんでいたところがある。(でも、結果としては、そうでもなかったですね!――いつも再訪してくださる皆様には、本当に、本当~に、感謝の念しかございません!!!)
(話を戻します。笑)
だから「来てくれたすべての人に楽しんでもらう」というよりかは、「読んでもらった人のうち、ごくわずかな人数だったとしても、その分刺さるものを」なんて感覚で書いていた気もする。
――うーん、やはり、今振り返ると我ながら重たいかも?(笑)

念の為言っておくが、私自身、読み手としては「魂のこめられた重い記事」も、もちろん好きである。(だからかつては、「そういうもの」を中心に、ここには綴っていこう、と思っていたわけであるからして。)

でも、「毎日更新」スタイルに変えたら、なんとなーく「気負い」みたいなものがなくなって。
どうもこっちのほうが、(「読み手」としてではなくて、)「書き手の自分」としては、しっくりくるようになってきてしまった。


深いところで考えていることは、忘れていても、実は忘れないものだ。――何故なら、その考えは、そんなに簡単には変わっていかないものだからだ。

で、あるならば。

私の場合は「刻々と変化する」「ふわっと漂泊している」ほうの考えこそ、日々、書き留めておくべきではないか。

そして私は、どんどん「変わっていきたい」「変えていきたい」のだと思う。何もこだわらずに、漂って、流れていきたいのである。
――「水深の深いところ」に眠っている自分の考えにすら、水面から光がより届けばいいと思っているし、「水面を漂う考え」のその潮流に引き摺られて、いっそ眠り込んでいないで遠くへ旅してくるがいい、というような気持ちすら、最近はあるのである。