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「生きる」とは「リレーすること」である

「自分の姿かたちはなくなっても
人々の記憶には残るのだから」
というものの考え方で、
一時期はいたのだが。


しかし、それでいくと
「いや、人の記憶もまた
時とともに必ず
薄れていくものですよ?」
という声が聞こえてくる。


ならば、我々は
「現世で何をしたところで、
そのすべては
いつかは必ず消えていく」
そんな運命にあるのだろうか??


その中で、
「永遠に残り続けるもの」は
本当に何もないのだろうか。

――とりわけ、
「名もなき自分のようなただの人間」
ならば、
尚更残せるようなものなんて。

何一つも、あり得ないだろうか?



「私」という存在は、
必ず消えていく。

人々の記憶からも
いつかは「必ず」消えてゆく。


――しかし。

たとえば、であるが。

「負の感情と行動」は、
それはもうわかりやすく、
人と人との間に、
連鎖し伝染していったりする。

「怒り」然り、「暴力」然りである。

そして、それは、
そのまま、
「人から人へと伝わる形で」、
時を経てもまた
残り続けてもしまう。

(一つだけ、
わかりやすい例で挙げるなら、
八十年近く前の
たとえば戦争の記憶も、
いまだに人々の中に
「当事者から、当事者ではなかった人へと
受け継がれる形」もあるいは含めて、
「怒り」として残されている部分がある。)

(そしてそれは比較的
「そのままの形」なので
例としてわかりやすいが、
その他のものも、種々様々な形を成して、)
「怒り」や「暴力」というものは
(「その形を変えながら」という場合も含めて、)
人々の中に残り続け、
誰かから、誰かへ、
――場合によっては、
「元々は無関係な誰か」まで
新たに巻き込みながら、
つまりそれは波紋のように、
「伝播」してしまったりも
していくものなのである。


で、あるならば。


(残念ながら、
「負」に比べると
感じにくい、目立ちにくい場合が
多い気はするのだが、)
「正負」で言うところの
「正」のほうだって、
感情も、行動も、その心も、
同様に、
「人から人へと」
連鎖し、
伝播していくものなのではないだろうか。


人から「人伝いに」、
続いていってくれさえすれば。

「私の存在」なんぞの、
その姿かたちも、
人々の中にあるその記憶も、
全く、跡形もなく、
消えてしまったとしても。

その後も。

生きているその時どきに
「私が残した何か」は、
(その形を変えながらも続き)
残されていく。

――言うまでもなく、
これは、
「正」も「負」も、である。

「負」だろうと
「正」だろうと
それは、何らかのかたちで、
先に述べた通りに、
「リレーされていく性質のもの」だからだ。


だったら。

この世に存在する、
あるいは、
私個人の中に存在する、
「負」を「正」に、
少しでも、
変換するために、
私は生きていきたいと思う。

――そのカードを
一枚でも多く
パタン、
と、ひっくり返して、
それを残して、
この世を去りたいのである。

(無論、これは
「世のため人のため」ではなく
「自分のため」である。)
(そうすることによって、
自分の気持ちを
清々しくしたいだけなのだ。
――そして「結果的に」それが
「世のため人のため」にも
うまいこと、なるようなことがあれば、
それはそれで、まあ、うれしいけど、
というところである。)

「正」に変換したその
「原子みたいなもの」は、
私がいなくなっても「勝手に」、
人から人へ、
(あるいは生物から生物へ、)
この世界を、
漂い、循環し、流れていくのだと思う。


ただただ、
「そのためだけに生きる」のでも
いい気がしている。


「現世を生きる」目的が
あるとするなら、
そういうことなのではないかと、
この頃、私は考えているのである。