見出し画像

「究極的に自由」-今どうにもならぬ事は全部とりあえず捨ててみることにした-

いや、何で夜中に食べてしまうのだろう?と。
ダメだ、ダメだ、ダメだ、いけない、いけない、いけない、やめよう、やめよう、やめよう、……と、これだけ思っているのに。
な~んで、こんなに、辛抱できなくなりましたかねえ?(前はもう少し辛抱できていたハズなんだけどねえ??)

ここ2年で、体重が激増、久しぶりにあった友人知人には、みな一様に驚かれてしまう始末。「……どうされましたか?」と。(ホントにね~。笑)

たぶん、まだいくつかは残っているストレス解消法のうち、一番即席且つ即効で、これまた感覚的に身体的に沁みいる(笑)のが、「仕事終わりのメシ」になってしまっているんだと思う。

ストレス。――ここ2年で頓挫したこともあるし(無念。)、それまでできていたのにできなくなった楽しみもあるし(大好物のカラオケとかね、無念。笑)、今の仕事に対しても不満がないわけではないし(待遇とかね、怨念。笑)、他にアレもあるしコレもあるし、……う~~~ん。

でもこの「ストレス尽きせぬ」感じは、いったい何故なのだ?とも思う。――起因がおんなじようなストレスを、飽きもせずダラダラと「発生させ続けている」この感じとは?

あくまで「自分の場合は」だけど、――なので今回はいつにも増して更に極めて個人の感覚話になるので恐縮なのだが。
結局、問題は「欲」なのかもなあ。
「欲」は「欲」でもそれは「今すぐどうにもしようもない類いの欲」で、なのに何故かいつまでも持ち続けていて、で、どうにもしようもないものだから、それが「不満」や「不安」にそのまんまその都度変わっていって、で、いつまでで~も、それの「解消」が必要になるという。

(前も別記事で書いたけれど、結局、人間というもの……いや、自分というものの「欲」の、そのどこまでも尽きせぬ「しつこさ」といったら!)

と、いうわけで、
簡単には始末できない、どうにもならない、そんな「執拗な」欲どもの、その代替としての大部分が、結局「夜中の食欲」に集中してしまっている(だって朝より昼より何なら夕より夜中メシは10倍くらい美味いのだもの、ホントに。笑)、という、今回の大分析の話なのであるが。(……って、分析なんていうほどのことじゃないか。でも、どう考えても当たっていると思う、この分析結果。笑)
(結局悪循環なのが、自分は元来が超朝型人間なので本当は早寝したいのだが、今の仕事が夜遅く終わる仕事なもので、終業→帰宅・飯→食ったばかりなのにすぐ就寝、っていうリズムにどうしてもなってしまう。深夜2、3時くらいまで起きていればまだいいんでしょうけど、それがまたできないんだよね~。)

……なんだかなあ。
どうにもならないままで滞留しているこの「欲」は全部捨ててしまって、身軽に(いろんな意味で、笑)なりたいなあ。

だって、叶うあてもないのに、叶わないことによる不満・不安は溜まる一方、で、それをひたすらルーティンかのようにお決まりの「食欲を満たす行為で機械的に解消」っていうんじゃ、そんな「欲」なら広がりもないし、抱え続けていていいことあるわけないではないか。

あるいはやはり、性格的に、いろいろ「こうでありたい」「なるべくこうでないと」と、本来別段どうでもいいはずのことまで「こだわり過ぎ」で。で、それがいくらパッと見では「希望」や「夢」――「未来に向けて持っていていい、あるいは持った方がいい類いの欲」に見えても、持ち過ぎればやはりそれって精神的な「不自由」を誘発する。挙句、心も重たく身動きもしづらくなるというか、つまりかえって良くない気がするんだよなあ。――結局、何のことはない、どうにもならない「望み」の代替で「食い過ぎ」→「肥満」ってなっているだけだしなあ。


――なんてことをアレコレぐるぐると。
「でもさ、欲なんてそう簡単に手放せるワケなくない?なくなくなくない?」(「ブギーバック」?今夜も??笑)などと逡巡しているうちに。
私は、ふと唐突に思い当ったのである。

もしかしたら。
「欲」も、何なら「望み」すら持たない、それこそがホンモノの「自由」なんじゃないだろうか?と。
――このカラダの「要らない重さ」は、物理的な重量だけでなく、即ちそんな「いろいろ抱えすぎている精神のほうの、その要らない重さ」まで、何なら「体現」してしまっているのではないか??……とまで。(「唐突に思い当たった」にしては深く考え過ぎ。笑)

では、
どうやったら、どういう考え方をすれば、「重たい割には持っていても仕方のない欲」を、手離せるだろうか?と、考えてみた結果。

自由!自由!自由!
――『欲を手離すと、その分の自由を手に入れることができる!』――
と、イメージすれば、つまりそう思いこめばいいんじゃない?と。

自由が何より大好きな自分である。
「欲をかかないかわりに、その時どきにどこまでも自由でいるのはOK」と自分に許す、そんな「条件」を自分に与えれば、欲なんて手離せそうな気がする。
――それがもともと「どうせ持っていてもどうにもならない欲」なのであれば尚更。

「もう、何もこだわりません!」っていうふうに。
「ぜ~んぶ、どうでもいいでぇ~す!」「モットーはテキトーどぇ~っす!」「特にな~んも、抱えたくないし欲しくありましぇ~ん!!」とか唱え続けてみるのも、いいかもしれない。(自由過ぎてアホ。笑)
そう、どうにもならないことは少なくとも「いっそ何ももはやこだわらず」でいけたらいいのかもしれない。――だって、「仕方ないこと」は、し方がないから、「しかたない」と言うのだしね。
で、例えば、「その時に楽しめるようにだけ、その時に楽しめることを、その時に楽しむ。」とか。(享楽的過ぎ?笑)――畢竟そうやって今現在のその瞬間瞬間で、「この今の瞬間の条件下で、今自分はどうしていたいのか」のみに集中しまくる。
そのようにしていけば、何も気にならないし従ってストレスも発生しない。
(……ハズ?笑)

逆から考えれば、今のこの瞬間というものに集中していないから、先のことばかりに――「こうあって欲しいのに、ああなって欲しいのに」とかの「たられば思考」ばかりに――取りつかれがちになる気もするし。(今の自分の場合は、それを思考している労力の割にどうにもならないことがほとんどなのに。――そしてそれはそのまま、「どうにもならない先々の不安」に転じたりもするし。)
また、「今できることの中で今最もしたいこと」に集中すればいいだけなのに、していないから、「一時的に気を紛らす」ための、つまり「最も」ではない何か――例えば自分の場合なら、夜中メシなんぞについフラッといってしまう、という所もある気もする。

(で、「究極的自由」を手にしたのだから一つだけ、――「とにかく仕事後は食べない」これだけを、――徹底的に死守すれば……?)

な~んか、これ、意外といけそうな気がするんだよなあ。
「夜中メシ」なんぞで得る、一時的な悦楽(悦楽?笑)よりも。
またそしてこの先々に対する「欲」――「こーでないと!あーでないと!」という「夢や希望」――あえてそこを言い換えて「願望やら欲求やら」――そんなものよりも。
自分は、「究極的な自由」のほうが、好きなはずだ。
強めの「欲」や「望み」が性質上どうしても持つ、「こだわり」というある種の「縛り」を捨てて、――その代わり、とにかくその時どきの「今現在」に、究極的な自由を手にするぞ!
早い話が、「自分を縛っているがその不自由さの割に意味のないもの」は、何から何まで、徹底的に捨てていくぞ!
――という考え方にシフトするほうが少なくとも、明らかに「自分好み」だと思う。


(そう、どうしても、「健康でいたい」ってところだけは捨てられない、……ってか、その欲だけは捨ててはいけない気がするのだよ。)
(今後、一人で生きていくことを考えるとだね。笑)



(余談)
毎回、基本的に、これくらいの軽さで書けたらいいかもなあ。
(記事の長さはもっと短く。笑)