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「人のために尽くそう」なんて気がサラサラないなら「一人で生きていく」と決めてしまうがいい

そうなのである。

所詮私は、
「自分の時間はすべて自分のために使いたい」し、
「自分が一番大事」で「自分が一番愛おしい」のである。
――いい年したオッサンが気味悪いでしょうが、(笑)
たぶんこれが真実なのである。

実の子でもいれば、
または伴侶でもいれば、
まだちょっとは違ったのかもしれないが。
――でもまあ現実にいないわけだから。

「そういう現実にいる自分」は、
今のところ、タイトルで述べたとおりの人間なのである。

『「人のために尽くそう」なんて気がさらさらないクセに、
「人には少しでもいいから尽くしてもらいたい」とは
ずいぶんムシの良い話ではないのか?』
……と、自覚したあたりから私は、
ちょっとしたことでも「人に何かしてもらう」ということが
どうも苦手になった。
――そうなると、そこに
「人と人との間の暖かい交流」みたいなものも
自ずと減ってくるわけでもあるから、
まあこれって「間違いなく寂しい人生」ってやつなのかなあ、
というふうにも思う。
(そしてこうして私の「孤独耐性」は
より強固になっていったのであろう。笑)

でも、そんな私は、
たとえば、「一人で見る景色」が、
案外、そしてますます、心から好きである。

川も、海も、森も、
遠くの山並みも、知る人は誰もいない雑踏の中も。
夜明けも、夕暮れも。
真昼の鮮やかな影も、深夜の一筋の光も。
時々見上げる空も、時々見つめる雨も。

自分一人で見ているそこには、
「誰かとはシェアできない色」というものがある。
時間というものを沈黙のうちに、でも一心不乱に眺めるかのような、
「一人という静寂の中でしか見えない色」
とでも言えばいいものだろうか。
(――というような言葉に置き換えてしまうと、これがまた、
たちまちその色は変質し、途端に失われる類いのものなので、
もどかしくも漠然としか形容できないのだが、)
その「独特の色」を、
(人によっては厭うかもしれぬ「その色」を、)
もしかすると、私は深くどこかで求めている気すらするのだ。

「静寂」こそ、
そこにじーっと耳を傾けると、
恐ろしく様々な「静寂」が「聴こえてくる」のと同じように。

「一人でしか見えない色」こそ、
実はバリエーションがおそろしく様々で、
心を研いで澄まして目を凝らして見つめれば見つめるほど、
その種類は更にまた増していくばかりなのである。

時の経過とともに記憶に蓄積されていく、
その数多の色の「孤独」に、
しんしんと、私はうずもれていく。

無論それは「寂しさ」と引き換えにして。
こうして私は、
「また元の自分というものに戻っていくのだなあ」と思う。