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世界は人々が(無自覚にでも)望んだとおりに進んでいく

結局、人間社会のほとんどもまた、「弱肉強食」の論理で回っているように、私には見える。――そして、結果的に多くの人がそれを受け入れてきた、ということは、(無自覚にでも、)多くの人がそれをどこかで望んでいるということなのではないか、と、私には感じられてしまう。

「いや、そんなこと、私は望まない、望むはずがない」そう言う人もいるだろう。
――が、それは案外「強者」側の理論だったりする。

つまり、そんな台詞が言えるのは、一度でも「絶対的弱者」の立ち位置にいたことがない人間だったりする。――もしも仮にこれまでひたすらずっと「喰われる側」つまり「弱者」の側にいたなら、そしてそれが逆転した時にも、人は同様のことを思えるだろうか、ということだ。――「やられたらいつかはやり返したい」「踏みつけられたらどこかで踏みつけ返したい」と思うのが、人というものではないだろうか。


現実に、
「大国が小国を力で捻じ伏せて強奪する」のも、
「強者が弱者から吸い上げブクブク肥え続ける」のも、
大昔から人間社会では連綿と続いてきたことだ。
――人間の歴史は、ずーっと、替わるがわるそんなことの繰り返しだ。

それは何と卑しく醜く荒んだ人の世であろうか。――でも、それを繰り返していまだ根本的には変わらないということは、多くの人々が、(心のどこかで)「そういう世界」を望んでいるということではないのか。――私は、そんな気がしてならないのだ。


人というのは、小さきもの、弱きものに自分自身がならない限り、その声を聴きたがらないし、その心を感じたがらないものだ。

――おかしいな。
世界を「大と小」「強と弱」のきっかり半数に分けたとしたら、等しく同数、それぞれの声は集まるはずなのだが、――やはり大きいものは小さいものの声を、強いものは弱いものの声を、その「力」で、かき消し、踏みつけ、遮るものだからであろうか。

しかし、聞こえずとも「想像力」さえあれば、その「小さきもの」「弱きもの」の声は、少なからず個人の理解の範疇にあるもののはずなのに。
――この世界の中で、「なかったことにされる声」の、なんと多いことか。

切られる一本の樹は、抜かれる一本の雑草は、或いは自分自身かもしれない。
――と、そんな気もしていたが。

必ずしも人というものは、強弱、大小、どちらか一方のみに立場を置かれるとも限らないものであろう。――強者でありながら弱者でもある、なんてことはいくらでもあるものだ。

経済的には明らかな下降線をたどり始めた我が国であるが、それでもまだ、経済力としては世界の半分よりかは上にいるとして。――例えば、同じ労働内容を、他国の人に「下請け」として安い賃金でやらせ、そしてその「安い賃金」の恩恵を、我々がまた享受しているという側面もある。
で、またそれは今度、そのまま国内にもトレースされ同様の構図が至る所で見られるわけで。――例えば、正規雇用と同内容の仕事をしても賃金格差をつけられてしまう非正規雇用の待遇なども、それと同じ構図になっているのではないだろうか。

そんなふうに、当たり前のようにこの世に蔓延る、「弱肉強食」とは、人が元々生まれもって受け入れている摂理なのであろうか。
――本当に、生まれた時から、――例えば「私」は? それを望んでいただろうか??

ふと、「いじめ」や「暴力」について考える。

「やった側は忘れる」が、「やられた側は一生憶えている」という、そのことである。

以前私も、ここにかつて遭遇した「パワハラ上司」のことについて、記事として書いたことがあった。
たぶん、一生、完全には忘れはしないし、許しもしないのだろうと思う。

私は以前から書いている通り、「暴力」が大嫌いである。
しかしそれは、「自分の手が汚れる範囲の暴力」に過ぎないのかもしれない。
――もし、自分が直接かかわる訳ではない、自分の手を汚さず、返り血を浴びる距離でもない、「他人事」の暴力についてなら、場合によっては「喜んで受け入れている」のかもしれない。

仮に、その、今はもう何の繋がりもなくなった「パワハラ上司」が、何らかの「あまりにも酷い不運」に見舞われたとする。私と直接的には無関係なところで、である。
――その報せを聞いた時、自分はどこかで「歓ぶ」のではないかと思っている。「ざまあみろ!」と、心のどこかで笑う気がするのである。――直接的に自分に利がなくても、である。

これでも本当に私は、「暴力」を、嫌っているといえるのだろうか?

冒頭に戻るが。
人類の歴史は、「弱肉強食」の歴史といっても過言ではないと思う。
そして、踏みつけられた弱きもの、奪われた小さきものは、そのことを、ずっと忘れはしないものだと思う。
「いつか立場が逆転した時は、」と、考えていても不思議はない。

私は「脅かされる」弱者になってはじめて、その「怖さ」に、やっと、思い至るのだ。――「今更」、である。

「お前らが作り上げたそのルールを、我々は踏襲しているだけだ。
お待ちどうさま。
ここまでずいぶん時間はかかったが、お前らがしてきたことを、今度は我々がやり返しているだけだよ?
――お前らは忘れたかもしれないが、俺らはずーっと、憶えていたんだよ?」

小さきもの、弱きものになってからはじめて、「人にはやさしくあろう」「人の声に耳を傾けよう」「人の心を慮ろう」なんて声高に訴えたところで。
それではもはや「遅すぎる」のだ。