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生きることがつらい人は「生き過ぎている」のかもしれない

本日は極論中の極論です。
どうか適当に読み流してやってください。(笑)


石や土には、「生」もなければ、「死」もない。
――見る人が見ると、「いいえ、土や石も生きています!」となることもあるかもしれないが、――いやいや、「生きてません」よね?(笑)

そのように、この世の多くの、ありとあらゆるものが、「生きていない」ので、無論「死んでもいない」のである。

私達にしてみても、その中では数としては少数派のたまたま「生物」という分類に「一時的に」なってしまっただけで、長い時間の中で、元を辿れば、(あるいはこの先には必ずそこへ戻るが、)「ただの物質のカタマリ」なのだ。――つまり、たまたま「生命体」なもので、「生」があるから、それとセットで「死」という「概念」も生まれてくるが、――そう、死とは本来「概念」でしかない。死は「状態」ではないのだ。
正しくこの世のものを(「概念」ではなく)「存在」「状態」で分類するなら、「生きている(生死の概念はあり、それも数としては少数派)」か、「生きていない(生死の概念もなし)」の二つに分かれるはずである。

「生きること」がつらいと感じている人は、「生き過ぎている」ということなのかもしれない、と、ふと思った。

(それしかできないので至極大雑把に言ってしまうのだが、)「生きて存在する」という意識が強力過ぎると――即ちそれは「こう生きなければいけないのに」という考えが強すぎるということかもしれぬが――「それなのに現実は、」となってしまうのかもしれない。

それがあるとつらくなるくらいなら。
「生きることの意味」なんて、いっそのこと、いらないのではないかと私は思う。

動ける「動物」という、ただの「生物の端くれ」として。
暑くなれば日陰に動くし、寒くなれば日向に動く、ただただそんな自然さでいることが、何故いけないのだろうか。
――何故、暑いさなかに日向に出ていき、寒いさなかに日陰に留まっていないといけないと「考えてしまう」のか、ということである。――そこにたとえ「意味」があったとしても、その「意味」は、そこまで大事なものだろうか?――畢竟、命と引き換えにする「意味」までは少なくともあるのだろうか?ということでもまたある。

時折、それを眺めながら「いっそ樹木や草花になってしまいたい」なんて私は思うこともあるが(笑)、しかし、植物は大変である。その命の危険を感じるような酷暑や極寒の中を、じっと動かずにいなければならぬのだから。
それは相当「ストレス」なはずである。――だから我々進化して、同じ生物でも動ける「動物」へとなったのではないのか?
動けるのに、何故、動かずに「自分の命を危険(精神的なものも含む)に晒し続けねばならないのだ?」ということを、私は思うのである。

「人として」ではなくその前に、「生命体として存在し続ける」こと。
――このことは不思議と、「健康な時」「安全な時」にはあまり誰も改めて意識していないことのほうが多いような気がする。――そして、これを意識し始めるのは、「それが危ぶまれる時」だったりする。つまりそうなると人は余裕を失い、「余計なこと」まで「考える」をしなくなる場合も多いものである。
――「余計なこと」とはちょっと言い過ぎである、というか、いや言葉が足りないのでそこに付け足せば。
「生命体として存在し続ける」を上回ってしまうような「意味」って、「人として」あり得るのだろうか?――それ即ち「余計な考え」ってやつではないのか??
(無論、「人だからあるんだよ!」という考え方の方もいるのは理解できる。――それでも、私個人は以下のように思う。)

「人間様」の「意識」を持つ前に、我々、ただの「生物」である。
「生きることに疑問」「生きるのがつらい」は、この「生物」の部分をすっ飛ばしていきなり「人間」になろうとしているわけだから、その時点で甚だ「矛盾」になってしまう気がする。

つまり、「生物」でなくなったら、少なくとも「人間様」ですらない。
そして、我々の「意識」も「考え」も、石や土にすらなりはしないのだ。

「生きていくこと」が重くなり過ぎたら、そんなふうに「生き過ぎず」に、「ただ生きてみる」というのも、悪くないのではないだろうか。
(以上、本日の極論でした。)