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「変な気」

「変な気を遣う」
「変な気を回す」…etc

「変な気」は、
持ち出さないにこしたことはない。


「変な気」は
「変な気」を呼ぶからである。
(今朝の結論。笑)

(「変な気を」じゃなくて「変に気を」のほうが、言い方としては正しいのかな??
ま、どっちでもいいか。笑)


――「変」かどうかは「個人の感覚」だから各々ではわかりにくいという意見もあるが、「とにかく何でもいいから気をつかえ」みたいなことは、そういう「変」を増長させるとは(個人的には)思う。
なので、回したり使ったりする「気」は、各々で胸に手を当てて吟味すべきだし、「わからなかったら、使わない・回さない」というほうをむしろとるというのも、選択として間違っていないのかもな?と、最近よく思う私なのである。


「気遣い」は、 あったらあったで素晴らしいものだ。
が、 あくまでそれは「オプション」というか、 一番大事なのは必ずしもそれではない場合も多いと思うし、 また、 「気遣いがない」というだけで、 他人を責めるようなことをしたら、 結局プラマイゼロというか、 かえって「全体として」マイナスになる気がする。

「気遣い」ってとにかく他人に「強要」するようなものじゃないし、 それ以外のことでも、 何でも「強要」した時点で、 どんな素晴らしいものも台無しになる。
――せっかくその人が他者に対して積み上げてきた「善行」までも、 そういうことで結局総じてのマイナスになったりしないだろうか??と、思う。


あるいは。
「思いやり」というと、 聞こえはいいのだ。
が、 それのせいで自分が精魂尽き果ててしまうようならば、 そんな「思いやり」は、「思いやり過ぎ」で、ないほうがいいんじゃないかとすら私は思う。
――いや、自論で極論ですけど、 「重い」のも「ジメッとしちゃう」のも、結局は空気として嫌じゃないですか。
(「空気」は大事です。――人と人との間にあるのは所詮「空気」ですから。)
(でも、重さとか湿度とか、自分が発しているものって、とにかく気づきにくいから気を付けたいものです。)


あと、これも以前に書いたが。

「してあげている」感。
――自分のも、他人のも、 正直、邪魔くさいと思う。

(と、いうわけで、本日も自論を極論に展開してお届けしてまいりました。笑)