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「最後の最後は自分で何とかするしかない」のは素晴らしいことだ

「やさしさ」について考える。

「あまりにも深く情をかけ過ぎて、共倒れになる」というのは、端的に言ってしまえば「よくないこと」だと私は思う。(その相手が親兄弟だろうと、伴侶だろうと、お世話になった人だろうと、親友だろうと。)

そういった意味でも、「今現在の自分の幸福感は、常時自分自身でしっかり見守る」必要がある。(他者からは、それはクリアには見えないものだから。)
つまりそれは、「情」や「やさしさ」を他者に振り向けることにより自分が消耗し過ぎてしまって、そこに感じるべき「喜び」とか「うれしさ」を、「心労」「不満」のほうが上回ってしまうような、そんなケースへの「警戒」のことである。
「無理をするによって自分の心の危険水域を越えていないか」は、やはり「各人が各人で責任をもって」感じるしかない、ということなのだと思う。
――「自分が不幸になる善意は、既に善意ではない」とすら、私は思う。


ところで、心の中とは、それぞれの人が持つ「聖域」だと思うから、どんな善意からであろうと、他者のそこにズカズカと入り込んではいけない、他者である人間が手を直接突っ込んでその中を変えようとしてはいけない、というのは、私の自論である。

――中には、そこに「地獄のような聖域」を持つ人だっているだろう。

が、しかし、どんな場合であろうとやはり、それを変えられるのは、「最終的には」その人自身だと私は思う。


「私自身もそうしてきた」という話で言えば、ヒントになる言葉を探したり、拾ったり、そして差し伸べられる知恵をたくさんありがたくも拝借したり、そうやってなんとか切り抜けてきた今日までがある。

でも、やっぱり、そうして多くのエネルギーを外から得たりまではするけれど、自分の心の中はやはり、「自分自身の手で、自分から発せられる自力で、なんとかする」しかない、のだと思う。
――そして、「他者の手によってではなく」でよかった、と、今、つくづく思ってもいる。

ちゃんと「自分の心」が「自分の心」としてここにあって、自分で動かす術を、少しずつでも、身につけている、ということ。

自分の身体の「替え」はないのと同じように、自分に与えられたのは、「替え」のきかない、そして他の誰のものでもない、「自分の心」なのである。

それは、「自分で何とかするしかない」ものだからこそ、「自分で何とかできる」ものなのだと言える、と、私は思う次第である。