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「やりたいこと」と「やるべきこと」と

「やりたいこと」と「やるべきこと」が
一致している人がうらやましい。

――が、
そうでないなら、ないなりに、
「その二つがただ分離しているだけ」
と、思えばすむことなのか?

とも、思い始めている。


「やりたいこと」というのは、概して
「こういうふうにやりたい」が
付いて回るものである。
――だってそれは「やりたいこと」だから。

でも、なかなかそれが
「やるべきこと」を兼ねた場合には、
「やりたいようにできる」ことばかりでも
なくなるだろう。

それはそれなりに
しんどいのだろうなあ、と
「想像」してみたりもする。

――そうだなあ、
「やりたい」は、
「今」やらないと、
その「やりたい」の通りにならない、
というところはある。

つまりそれは
どういうことかというと。

例えば、
私が、今ここnoteに、
「自分が書きたいようには
書かせてもらえない」
として、
じゃあ、時間ができた時、
――いつかの数年後にでも、
自由に書きたいように再度書けば?
と言われても、
それはもう
「通り過ぎてしまって戻らないもの」
になっている可能性は高いのである。

「やりたいことがやるべきこと」でも
そこにこそ、
「不自由」が付きまとうようになると、
たぶん、
言い知れぬ苦しみは
生じるものなのかもしれない
なあ。
(と言ってもこれは、
「経験談」ではなく、
繰り返しますが、
「想像」でしかありません。笑)

秋桜もそろそろ時期的には終わりかな?

ところで。

例えば、
今の私は、冒頭で述べたとおり
「やりたいこと」と
「やるべきこと」が
完全に分離している状態なわけであるが。

「やりたいこと」=書くこと
「やるべきこと」=仕事・家事
だと仮にしてみよう。


まず、
完全に分離していると、
今の私の場合、
「やりたいこと」は
まるっきり「自由」である。

――「やりたいこと」を
「自分の自由意思で
100%コントロールできる」
というのは、
これは、
当たり前にやってしまっているけど、
最高に幸せなことのはずである。



悩ましいのは
「やりたいのにやれないこと」
の存在かと思うが。

以前、欲についての話を
ここにを書いた時、
「一つ叶えば、その次のことが
『一番叶えたい』の位置にくる。
『叶えたいもの』というのは
順々にせり上がってくるものだ」

と、
つまり
「欲はきりがなくて当然だ」
と、いうようなことを書いたのだが。

たぶん、私も
「やりたいのにやれないこと」が
もし「やれること」に繰り上げれば、
たぶん他のことが
「やりたいのにやれないこと」として
次に浮上してくるだろう。

つまり、
「やりたいのにやれないことがある」
というこれは、単に
「新陳代謝が活発」
「入れ替わる次の細胞の用意は既にできている」
みたいなもので、
「心身ともに元気な証拠」なのである。

だから、それについては
「力がまだ有り余っている」
とだけ捉えて、
不満をあまりにも募らせたり
頭抱えて悩んだり、
そんなふうに不機嫌にならないことが、
肝要
な気も、私はしている。


で、
私の場合、
「やるべきこと」=仕事・家事
としてみた。

――うむ、これについては
「やりたくないのにやっている」
と捉えがちである。

私もそう――だったのであるが。

でも、これもまた
(極論だが、)
本来は「やるやらないは自由」で、
「それをやる」と選んでいるのは
自分なのである。


――もし、
「私は自分で選んでいない」と
思う方がいらっしゃったら、
「即刻やめる」ことを考えてみて欲しい。
――「いやいや、やめられないよ、
いろいろ事情があるんだから」
と、なる方も多いだろうか。

「事情がある」こと自体は、
現実だから仕方がないことだ。

でも、
「その事情を考慮することにした」のは、
まぎれもない自分自身である。

「事情は一切考慮せず、
後先考えず全部捨ててぶっちぎる」
こういう選択肢は、
実はいつでも用意されているのだ。

でも
「さすがにそれはしない」
と決めたのは
自分自身である。

(世の中には
「さすがにそれはしない」だろうことを
平気でしてしまう人も
存在しているわけである。
――その「善悪」のうちの
「善」のほうをとりたい、というのは
あなた個人の
「価値観」であり「意志」のはずである。


――とはいえ、
理屈ではそうだとわかっていても
「仕方なくやっている」という
その気分はどうしても拭えないものだ。

(私は拭えません!笑)

でも、整理して考えれば、
仕事については
(私の場合は、)
・最低限の生活費は稼ぎたい
・この仕事を選んだのは自分だ
・転職活動は今は面倒だからしたくない
と、結局、割と、
(限られた条件の中ではあっても)
「自分の意思でしたいようにしている」
のである。

家事についても、
これは「雇用された賃金労働」で
やっているわけでもなし、
丁寧にやるのも自由だし
手を抜くのも
なんなら一切やらないのすらも
自由である。

――なんだ、これもまた結局
「自分の気のすむように
あるいは気のすむ程度まで
やっている」だけではないか。

(例えば、同居の人間で
あなたの「やり方」「仕上がり」に
不満を言う人がいるなら、
その人に後はやらせたらいいと思います。
角が立たない程度に
そのように「誘導」してみるのも
一つの手、ですよね?笑)


「やりたいこと」については
自由にやっているし、
「やるべきこと」についても、
限られた現実的条件下ではありつつ、
その中で
「やりたいようにやっている」
わけである。
(もし、
「いや、私はそうではない」
という方がいて、
「それが不満で仕方ない」
となっているなら、
一度、上記で私がしてみたように
考えを整理してみると
いいのかもしれませんね。)

そして、思うのは。

「あまりにも多忙」にならない範囲で
「やりたいこと」と
「やるべきこと」で、
一日がキチッと埋まっている
この生活こそが、
実は

(「通常」と、「当たり前」に、
思ってしまっているけれど、)
幸せなことなのかもなあ?
なんていうふうにも思うわけである。


※と、言いつつ。

最近少々、
生活のタイムスケジュールが
「キチキチ」に
なり過ぎている感があるので、
ちょっと時間の余白を
意識的に作るようにしようか?
とも、考え始めてはいる。

私は、
元々の幼少の頃は
もっとのんびりした人間だったと思うし、
そして、
「ヒマだなあ」という感覚が
懐かしくもあるので、
そっち寄りに徐々に
今後戻していこうか?と。

言うなれば、
「やりたいこと」と
「やるべきこと」で
時間が全て埋まっているので、
「どうでもいいこと」
「何もないこと」
を、あえて混ぜていきたい。

――と、
そんなこともちょっぴり
考え始めている今日この頃ではある。(笑)