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「失敗」は「まだまだ変えてOK」のサインである

自分自身の身体も、その健康状態も、常に変わっていく。

そして、自分を取り巻くもの――自分が存在する社会とか世間も、刻々と、変化をし続けている。(それはもう、私の予想などは、いつでも遥かに越えて。)

で、どちらについてもそれは、この先も延々と続いていくことだろう。

しかし。
一度固定した「自分のものの考え方」だけが、意識的にそうしない限り、案外、なかなか変えていけないところもあったりする。――それ以外のほとんどが変化をしていっているにも関わらず、ということである。――つまりこれは、「自分の思考回路だけが、いつでも取り残されがちになる」ということを示している。


「自分を常に疑える」
そんな自分(の現況)で、よかったと思う。

たぶんこれ、現況から、「何にもまだなれていない」感、「どこにもまだ辿り着けていない」感があるおかげ、という気もする。――常に「これからどうしよう?」「今どうすればいい?」と、考えざるをえない状況の、現在の自分なのである。(無論、普通の、柔軟な思考を予め持っている人々は、そういう感覚を与らなくても、いくらでもものの考え方くらい変えていけたりするんだろうけど。――自分、そこを無意識に放っておくと割と「硬直しがち」なタイプなんですよね。笑)

もしかすると、危うく自分は、「めちゃくちゃ頭の固い人」になるところだった、と感じている。

たぶん、生活スタイルでも、職業でも、「ほぼ完璧に自分の思い通りに叶ったもの」を一つでも携えることがこれまでに達成できていたなら、自分は「そこからいかに変えずに守っていくか」ということのみに、執着してしまった気もする。
更には「完璧」というものにも(しかるにそれは「自分が個人的に頭の中に設定しただけのこと」に過ぎないのであるが、)固執して、異様な「完璧主義」になっていたかもしれない。(ひと昔前の自分は、どこかそういうところがあった。)(今は違います、変わりました。笑)
――「完璧」を一度頭の中に設定すると、「わき目も振らず」「過集中」になって、その方向にしか目指すものがなくなってしまったりしがちだ。(自分は特にそうなりやすいタイプだということ。――やはりこれも、「完璧主義、だけど思考は柔軟」という器用なタイプの人も、もちろん世の中にはいると思うのだが。)

例えば。

どのジャンルでも「大御所」と呼ばれる方々はいて、その中で、「どんどん変えていく」または「新しいものも吸収していくし、構わず後戻りもまたできる」タイプの人と、「テコでも動かない不動の信念」みたいな感じでやっているタイプの人とがいると思う。
これを見て、「理想を守る」って、一度背負うと身動きするのにも重量が掛かるんだなあ、あるいは「成功する」って、ある種の怖さがあるよなあ、と、感じた、ということもある。
――私自身が、殊更、(「変わっていきたいと思ってはいる」タイプであるにも関わらず、それと同時に)「極めてうまくいったことについて、それでもそこから更に変えていく、それを試し続ける」というのが、たぶん苦手だろう、と思われるからである。

「な~んにも、たいしてうまくいかなかった」これまでの人生の「おかげ」(笑)で、ここにきて私は、ずいぶん、ものの考え方、人生の進め方が、変わってきた気がする。――いくらでも、何でも、「試す価値あり」状態だったからである。

そして、「完璧」という、単なる「個人的」概念とか価値観とかに、固定されるくらいなら、むしろ「完璧を目指す」みたいなことはバッサリ捨てて、フワフワ浮遊しながら、「自由に変わり続けよう」と、――そうほうがよくない?と、最近ふと思いたったのである。――だって、そのほうが、何だか圧倒的に「御機嫌」で「面白そう」だからさ、と。

「失敗」?――大いに結構ではないか。
それは「まだまだここから変化させて何の問題もなし」というサインではないか、
と。

私は、ずーっと「最期」まで、ものの考え方も、生活の仕方も、変え続けていきたいのだ。

だって、――冒頭に戻るが、物理的なものはもちろん、形のないものすら、すべてのものは変わっていくのだから。――自分だけ「大成功」のその場所に変化なく居続けたら、(もちろん本人がそれでいいなら、別にまったくいいことなのだけど、)不自然だとも思うし、もったないという気もまたするから。

自分自身、ものの見方ごと変えながらいけば、たぶん「この世界の眺め」も、つられて変わっていく。
――たった一回の人生かもしれないし、どうせなら、変化していく「世界の景色」を、いろいろと「試したい」ではないか。

つまり私は、貪欲なのであろう。(笑)