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自分のいる世界くらいは上機嫌に、どんな手を使ってでも(笑)

「自分本位」というと聞こえが悪いのだが。
しかし、「自分の人生本位」「自分の時間本位」で、人というものは本来いいのではないか、と、私は思っている。

いや、「他者本位」でも、もしもそこに全く不満が湧かないというのなら、それは素晴らしいことだし、いいのだが。
――しかし、私はやはり、自分で心から望んでそうする場合以外には、「100%のそれ」を延々と続けていても不満が全く湧かない、というようには、どうもなれなかった。(はい、いつまで経っても人間ができあがらなかったものですから。笑)



「不満」とは、人生や、人の時間に於いての「万病のもと」だと私は思う。
――そうなのである、「時」も、人が使用するものに限っては、病を患うもののようなのである。

「不満」が湧き出すくらいなら、「どうするか・どうしたいのか」は、自分で意識を持って「選ぶ」べきであり、そういった意味でも、「自分の人生本位」あるいは「自分の時間本位」というようにあるべきなのではないかと私は思うのである。


一つ前の記事でも述べたが、自分というものの「最高責任者」は、(大人になれば間違いなく)常に自分自身である。

と、なると、自分の人生というものも、自分の時間というものも、その「最高責任者」は、やはり自分自身である。

つまり、その点においては、いつだって「誰かのせい」になど、できないはずなのである。

「100%あいつのせいで不機嫌!」、なのだとしても。
――その責任すら、最終的に負うのは「自分自身」だ。
何故ならそれは、「自分の人生だから」である。

したがって、例えば、もしも元から、「私は他者のことなど一切考えたくはないのだ」というものの考え方なのであるならば、もうそれは、そうするべきなのである。
(とはいえ、でもまあ、そういう人も少ないのではないかな?――人間とは本来、自然と育っていけば、多少、「他者のことも考えたい」となる類いの生物のような気がするのだが?)(但し、そのことまでを書き出すとまた長い話になるので、それはまた日を改めて。笑)

――「その自由」を保証するかわりといっては何だが。

自分の人生に於いて、その自分の「持ち時間」に於いて、「不機嫌」を自ら生む時間を、なるべく小さくしておきたいものだ、と、こう私は考えるわけである。

何故なら、どうがんばったところで、(繰り返しになるがやはり私は人間ができていないもので、笑)、「私の不機嫌」は、発生させれば多少でも漏れ出て、「周囲の空気を汚す」からである。
――その私の「不機嫌」とは無関係な方々にとっては、それは、「公害的」な「100%いい迷惑」ではないだろうか。


また、「類は友を呼ぶ」というのは、「機嫌」についても言えることだと思うので、上機嫌をもらいたい、他者からのものはできれば上機嫌に包まれていたい、と思うのであれば、、自分自身が上機嫌を「キープ」できるように、常に「気の持ちよう」を工夫しておいたほうが良いのだろうとも、思っている次第なのである。

そんなこんなの「自分の人生本位」「自分の時間本位」という考え方なのである。


――どんな手を使ってでも(笑)、「自分自身の認識の中にある世界くらいは上機嫌に」保とうではないか、と。




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