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人は「一人では生きられない」が「誰とでも共に生きられる」ものでもない

極度の「THE 人見知り」の私ですら。

誰一人とも親愛の情を交わせない、そんな日々は、少し虚しいかも?なんて思う。


――とはいえ。

「情」みたいなものは、誰とでもやりとりできるものでもまたないのである。

つまり、(至極大雑把に言って、)「良い情」と「悪い情」とが、人間の中にはあり。
(各々の中にあるのと同時に、あるいは一人の人間の中にその二つともがある場合もある。)

「悪い情」は、お互い、キャッチボールし合わないほうがいいものだ、ということである。

接触すれば「悪い情」もまた、ウイルスのように「感染」し、「罹患」するものだから、である。
――悪いウイルスを、わざわざ交わし合うことはないであろう。

んなことをしたら、自分も病んだ上に、それを今度は「人にうつす」側になりかねない。



但し、そういう「悪い情を人に投げる」ことを何故か「好む」(至極大雑把にまた言ってしまえばだが)人もいるので、気を付けていないと、つられてこっちも、好まないのにもかかわらず何故か「巻き込まれて」してしまうことがあるのだ。

『誰にでも優しく、その愛情はどこまでも深く、慈悲の心を大切にし、思いやりの精神に溢れている。』
――うん、そういうのって、「理想的」だとは思う。

思うが。
でも、「理想的過ぎる情」というのは、もはや「神の領域」であり、「生身の人間のできること」ではなくなってくる気も、私はする。


「神様がお暮しになる天上界」でもないのに、それを実践しようとすれば、やはり、「人間界」では、ちょっとした「地獄」みたいなものに、近づく、あるいは出くわすような羽目になるのか?と私は感じている。
(大したものではないが、これは私の経験則でもある。)

(これは前にも書いた「自論」であるが、――「地獄」とは、人間が作り出した「この世」にこそ、処々に、断片的局所的に存在するものであると、私は考えている。)

(話を戻して、)
そういうのは、「無理」だから、やめよう。

「生身の人間」は、「地獄」にかかわる必要は、本来ないだろう。

だから「心に地獄を抱えている人」には、「自分の心」を近づける必要はない。
それは大変危険なことだ。
――こちらの「人としてのまともな心」が、維持できなくなる恐れがある。

「心に地獄を抱えている人」は、基本的に人を「呪っている」のだと思う。

その人のそれは「あちらに這い上がろう」という精神ではなく、自分のいる所に誰かを「引き摺り落とそう」という精神である。

で、そういう気持ちで(その人にとっては「藁をもつかむ」の場合もあるけれど、それでも)手を伸ばされても、こちらとしては、その人を、その地獄から「引っ張り上げる」ことなんか、そもそもできないのだ。


「人を呪っている」そんな人間は、(かわいそうなことかもしれないが、その時点で、)相手にしてはいけないのである。

そして、これはまた、きついことだが。
まず「自分の心」については、(誰かに助けを「借りる」ことまではできても、)最後の最後は、自分以外には守ってやれない、ということを、私は肝に銘じておこうと思う。

――「心」とは、自分以外の人間が直に手を入れてコントロールしてはいけない、「各人に与えられている聖域」だと、私は思うからだ。

「心」は、それぞれが、最後の最後は「自分で」、なんとかせざるを得ない、そんなものなのである。
(少なくとも「自分はそうでありたい」と、私はやはり思っている。)

確かに、人は、一人では生きられない(かもしれない)。

が、共に生きる相手は、自分で選んでいい。――というか、いや、「責任もって選ぶべき」ものだと、私は感じている。


誰彼かまわず、情という「大切なもの」(それは自分の心の分身ともいえると思うので)を、交わす必要はない。


まとめてしまえば。

「人だと思わなくていい」そんな相手も(無邪気だった子供の頃に思っていたよりかは割と)存在している、ということは、自分の心を護るためにも、時々思い出しておこうかと思う。

そういう相手は、その存在自体をもはや「生きもの」だと思わずに、ただただ、ただの「よろしくない出来事みたいなもの」の「一部分」だと思って、万一出くわしてしまった場合は、(自分の「心」はその「相手」からは離して、)「淡々と、粛々と、『事故対応』『事後処理』を行う」で、良いのだと思う。