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ふと思い出した「壊れかけのテレビ」の話

またまた、私が幼少の頃の昔話で恐縮なのですが。

――まだ、ブラウン管だった時代の、テレビの話。


「もう長く使って、そろそろ映りも悪くなってきたので、買い換えようかね?」
という話が、家族間ででると、その度に。

まるでそれを耳にしたかのように、不思議と、そのテレビの映りが良くなる、(とはいえ、ほんの数週間の一時的なものだが、それでも)そういことが、一度ではなく、何回か繰り返されたことがあり。


――いや、科学的に考えれば、どう考えても「テレビという機器に心がある訳がなかろう」という結論に達するはずなのですが。

しかし、私だけでなく、なんとなく家族中が、「このテレビ、まだがんばりたいのかな?」という気に(まるでそれが普通の捉え方のように)なっていたから、不思議なものであります。


しかし、モノって、いつの間にか自然と、「擬人化」していませんか?
――まるでそれが当たり前の感覚であるかのように。

特に長く持っているものなら、尚更。

あとは、頼りにしているもの、愛用している、頻繁に使っているもの――たとえば、今使っているPCとか。

あるいは肌身離さず持っているもの――スマートフォンや財布も。
(しかし、同じように持ち歩くことになっている、たとえば「お守り」なんかは、それもまた「もの」ではあるはずだけど、意識上で改めて「擬人化」はしませんもんね?)


いや、なんていうか、これは「単なる思い込み」とかではなくて。

自分の持ち物って、「自分の身体の一部」とまでは言わないけれど、「自分という存在の延長線上に、繋がってあるもの」という気は、するんですよね。

だから、それなら、何かしらそこに、「モノの意識」みたいなものが存在しても(あくまで「みたいなもの」であるからして、生物の「意識」とは、それはもちろん別物でしょうけど)、おかしくはない気が、自分はするんですよね。
(その「モノの意識」とは、私自身の意識と繋がることによって生まれるものなのか、それとも、私の意識と呼応し始めることによって既にあったものが初めて私にも感じられるようになるものなのか、――う~む、そこの辺りは、よくわからないし、私にはそもそもそんなことはわかりようがないので、そこまでの考察はちょっと置いておきます。)


たとえば。

「モノ」に心はないけれど。

でも、「まだ全然使えるモノ」を、使わぬまま捨てる時は、多くの人は、胸が痛むんじゃないですかね?

で、その「痛み」って、「資源の無駄遣いをする後ろめたさ」(も、そこに混ざってあっても別にいいのだが、でも)それとは違って、もっとシンプルに、「まだ生きている生物を、意味もなく殺生する」その時のその痛みに、少し似ていると思いませんか??


私は、これからはますます、「モノは生きている」感覚で、使っていきたい気がしています。

だって、「生物の命」と同じと定義しなくていいのなら、「生物ではない、生きているのではない、でも命みたいなもの」が、この世に存在したって、別にかまわないと思うので。

なんとなく、自分としてはですが、そっちのほうがしっくりくるというか、落ち着くんですよね。

「ものを平気で粗末にする」のは、何だか、ゆくゆくは「自分を平気で粗末にする」にも繋がっていくような気もして、だからなおさら、そういうことはしたくない、ともまた思っている次第です。




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