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「甘える」のってそんなに悪いことじゃない

「人に甘える」ということについて。

それができない・したくないという人は結構多い気もするが、理由としては

・独立心が強くてそちらが勝つ
・相手に悪い気がする
・やり方が解らん
・人が怖い・警戒すべきものだと思っている
・人から甘えられるのが嫌いだから自分も甘えない

とか、色々ありそう。
(自分はこれ、全部少しずつあるかな。笑)

ただ、これらのことって一見 「甘える」の反対側に位置するようにみえて、 実際は必ずしもそうとも限らないような気もする。
甘えつつ警戒は解かない、独立心はある、っていうのはフツーにあっていいし。
あるいは、甘えたからって、それを100%受け止めてもらう必要もなく、逆パターンの場合も、甘えられたからってこちらがそれを100%受け止める必要もなく。


「甘える」について、結局、相手がいることなのに 「相手が見えていない」あるいは 「相手をよく見なくなる」と、 おかしな感じになるのかもなー、なんてことを、ふと最近考えたのであった。
(甘える時というのは、つい自分の内面のほうを中心に注視してしまうよね。)(自分もそこら辺、多分不器用なのでエラそうなことはホントに言えないのだが。笑)

で、「対する相手をよく見る」ほうが、実は、 むしろもっと「気楽」になるような気もする。(もしかすると、「甘える」だけでなく、それ以外の対人のいろいろなことに、これは当てはまることなのだろうけど。)

まあ、「甘え」は悪いもの っていう感覚を、どうも自分は幼少期から散々擦り込まれてきたけれど。
「相手がいるのに相手をよく見ないこと」が悪いだけであって、 「甘え」自体は、実は悪いことではない気がする
、ということをも、私は思い始めているわけである。

「甘える」という気持ちがそこに全くないと、「助けあい」ということもそもそもスムーズにいかないわけであるしなあ。

ここまでの話を至極簡単にまとめると、 疲れた時は「疲れちゃった」と、もっと気楽にみんな言うだけ言ってみてしまえばいいのでは? みたいなことなのかもしれないです。(笑)

例えば 「溺れている人がいたら助けられるなら助けたい」 と思うのは、 割と自然な、人の中に元から備わってある感情あるは習性の一種ではないか?と思う。

だから例えば 「疲れた」「つらい」「困っている」等々、 誰もが軽い気持ちで言うだけ言ってみたらいいと思うのだ。
無論、即解決、とはいかないかもしれないが。
しかし、言葉にして出すだけでも絶対違う。
「口に出してもいけないこと」だと思って、私は育ってきたけれど、そうすると、他者に対してもそういう視線を今度は自分が送るようになるしな。
そんなのって、「深呼吸でもして吸えるはずのそこにある空気をわざわざ薄くしている」ような、ただただ、「息苦しいだけ」のような気がしてきたのだ。